沖縄県の玉城デニー知事は28日午前の定例記者会見で、日本軍が沖縄戦を指揮するため1944年12月から首里城の地下に造った「第32軍司令部壕(首里司令部壕跡)」を29日付で県指定史跡にすると発表した。県が戦争遺跡を史跡に指定するのは初めて。県指定史跡は56件目。
東西に延びる第2坑道。比較的に状態が良いため、梁を支える「支保工」を設置していない区間=5月12日、那覇市・第32軍司令部壕(代表撮影)玉城知事は来年が戦後80年に当たるとし「教育的な観点から指定し継承していきたい。沖縄の心を発信する平和教育の一つの拠点として活用していきたい」と述べた。
県は、掘削調査を行い、内部の状況が確認できる司令部壕の一部を先行して指定する。対象は第2坑道と第3坑道、第5坑口および坑道の一部。立ち入りができていない他の部分は今後の調査を行った上で指定を検討する方針。
守礼門近くの地下。進入坑道の階段を下りた地点から、第3坑道を写す。第3坑道は主に砂岩で構成されている。正面奥に見えるのはエンジニアリングトンネル入り口。坑道の幅は2.8メートル前後、高さ2メートル前後で、今回撮影した区間で最も広い区間=4月25日、那覇市・第32軍司令部壕(代表撮影)玉城知事は先行指定した区間について「入場して体験できるようにする」との考えを示した。公開する具体的な時期については「調査を進めており全容が明らかになり次第、発表していきたい」と話した。
同知事は32軍司令部壕について「住民を巻き込んだ組織的持久戦の展開という沖縄戦の方向性を決定付ける判断がなされた場所として、沖縄戦の実相を次世代に伝える極めて重要な遺跡と評価されている」と説明。「戦争体験や教訓の風化が懸念される中、戦争の不条理さ、残酷さ、醜悪さを知るとともに平和の尊さを伝える貴重な遺跡」と強調した。
戦争遺跡の文化財指定は南風原町が1990年、「沖縄陸軍病院南風原壕群」を指定。全国初の事例となった。
日本軍第32軍司令部壕を戦争遺跡で初めて沖縄県指定史跡に指定したと発表する玉城デニー知事=28日午前、県庁【あわせて読みたい】
首里城が焼失して3年。あの時、沖縄タイムスで事件・事故を取材する社会部の警察担当記者(通称・サツ担)2人は沖縄のシンボル焼失を目の当たりにした。泣き崩れる住民、消火活動に奔走する消防隊員、原因究明に尽力する捜査員―。当時の取材メモを読み直し、写真とともにあの日を振り返る。
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