自らの戦争対決を話す大釈敏夫さん=三重県伊勢市の自宅で2011年、撮影
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 戦後79年を前にまた一人、大切な証言者の声が失われてしまった。第二次世界大戦終結後、旧ソ連によってシベリアに抑留された三重県伊勢市の大釈(だいしゃく)敏夫さんが4日、亡くなった。1月に誕生日を迎え、101歳だった。全国強制抑留者協会の県支部長を務め、抑留体験を語り続けていた大釈さん。過酷な体験を語ると必ず「戦争はしてはいけない」と平和を訴えていた。

 県支部は21日、津市久居野村町の陸軍墓地公園で、2006年から続く慰霊祭を行い、抑留者を悼んだ。抑留体験者や遺族ら約40人が参列。降りしきる雨の中、黙とうをささげ、シベリアで力尽きた600人以上の県出身者の名前が刻まれている「平和の礎」の碑に献花した。

大釈さんの遺影を持って慰霊祭に参列する田岡恵子さん=津市久居野村町で2024年4月21日午後2時22分、下村恵美撮影
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 出席予定だった大釈さんの遺影を抱いて参列した長女の田岡恵子さん(70)は、父の支部活動に寄り添ってきた。「温厚で話をするのが好きだった」と生前を懐かしみながら、身の回りのことも自分ででき、家族に世話になることもなく、穏やかに逝ったことを明かした。

 大釈さんは1923年に現在の度会町に生まれた。18歳で開拓団として旧満州へ渡り、45年に鞍山の高射砲部隊に入隊。終戦間際に侵攻してきた旧ソ連軍と交戦し、捕虜になった。48年に帰国後は、「写真で父が戦地へ行っていたことは知っていたが、戦争について語ることはなかった」と田岡さんが振り返るように、家族にも抑留されていた当時のことは口を閉ざした。

 沈黙から一転、語るようになったきっかけは、70代に大病を患ってからだという。「亡くなった戦友のことを伝えるために話さないといけない」と大釈さんは抱いた使命感を明らかにしていた。

慰霊碑の前で平和を誓うシベリア抑留体験者の大釋敏夫さん=津市久居野村町で2023年4月8日午後1時38分、下村恵美撮影
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 抑留者は厳しい自然環境の中、強制労働が課され、満足な食事も与えられず、飢えに苦しんだ。厚生労働省の調査によると、約57万5000人の抑留者のうち、約5万5000人の死亡が認められている。帰国を願いながら、かなわなかった仲間たちへの思いが、大釈さんを突き動かした。

 講演の際、台本は用意しなかった。寒さに耐えながら重労働に従事し、食事は水のような薄い味のスープと一切れのパンのみ。仲間たちが次々に息絶えてしまう極限の状態に追い込まれ、自らも死を覚悟した経験を、時を経てもあふれてくる感情から出てくる言葉で紡いだ。

慰霊碑に頭を下げる田岡恵子さん=津市久居野村町で2024年4月21日午後2時37分、下村恵美撮影
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 田岡さんは「みなさんが熱心に話を聞いてくれることがうれしかったんだと思う」と精力的に活動を続けた父の心中を推し量った。印象に残っているのは23年夏に伊勢市の中学校を訪れたときのこと。戦争をしてはいけないと訴えた父の姿から、「未来ある子どもたちにつらい思いをさせてはいけない」という強い意志を感じた。

 23年の慰霊祭で大釈さんは「私たちが受けた同じような悲劇が二度と起こらないよう、一層の努力を傾けます」と述べた。田岡さんは父の言葉を思い出し、混沌(こんとん)とする現代の国際情勢を重ね合わせ、「外国で戦争が起きている。(体験者として)戦争はやってはいけないと、もっと伝えてほしかった」。父のように体験談を語ることはできないが、遺志を継ぐように「これからも慰霊祭に参列する」と遺影に誓った。【下村恵美】

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