北朝鮮による拉致被害者の曽我ひとみさん(65)が、新潟県佐渡市で毎日新聞の単独取材に応じた。曽我さんは2002年に帰国してから10月で22年が経過。拉致問題は全く進展せず、今春から報道機関の単独取材も受けるようになり、焦る気持ちを訴え続けている。一緒に拉致された母ミヨシさん(行方不明時46歳)はいまだ安否が分からず、12月28日で93歳となる。「働き者であまり怒らずいつも明るい母」だったというミヨシさんへの思いを語った。
働き者だった母の思い出の味
曽我さん親娘(おやこ)は旧真野町(現佐渡市)で1978年8月12日午後7時過ぎ、自宅近くの商店から帰る途中、北朝鮮の工作員に拉致された。曽我さんは当時19歳で、それ以降、母の姿を見ていない。
曽我さんが真野小の高学年だったころ。同級生が服を自慢していたのをうらやましく思い、自宅のタンスにあった金を持ち出して服屋でセーターをこっそり買ったことがあったという。その日の夜、帰宅した母に気づかれ、怒られるのを覚悟した。だがミヨシさんは家庭が貧しいことを気にしてか、「母ちゃんが買(こ)うてやれんもんし、ひとみが1人で買うてきたんだな」と言い、最後にこうつぶやいたという。「堪忍な、堪忍な……」
曽我さんは予期せぬ母の態度に感極まり、働き者だった母の背中をいつも見ていただけに、「その言葉が普通に怒られるよりすごく心に刺さり、とても反省した」と振り返る。
「母は朝から晩までずっと働いていた。父がバイク事故で働けなくなってしまったので、その代わりに2人分働いていた」と曽我さん。ミヨシさんは夫と二人の娘のため、昼間は北越ヒューム管の工場で働き、帰宅後は夕食を作って家族に食べさせた。その後も、ざるを作る内職を午前0時ぐらいまでして就寝。午前4時半か5時ごろには起床する生活だったという。
そんな多忙を極める母が自宅の畑で、丹精込めて作ったというサツマイモが曽我さんにとっては”思い出の母の味“。「甘くておいしい。母も私も大好き。北朝鮮ではあまり食べた思い出がないが、帰国して自宅の畑に行くと、知り合いに時々分けていた母を思い出す」とほおを緩める。
「母の手紙か答え出せない」
北朝鮮はミヨシさんについて「承知しておらず、引き渡しを受けたのはひとみさんだけ」と日本政府に回答しているが、一緒に帰国した拉致被害者の地村富貴恵さんから、ミヨシさんが北朝鮮で書いた可能性がある手紙を見たと聞いたことがある。外国人を宿泊させる「招待所」と呼ばれる場所で、三面鏡の引き出しの中から見つかったという。
手紙には「久我ヨシ子(または良子)」「50代」「70年代に革命のため佐渡から朝鮮に来た」「○○工場で勤めていた」「主人は交通事故で亡くなった」「26歳の娘がいて結婚している」などと書かれていたとされる。
曽我さんは「この話が昔、ニュースになる前に地村さんから一度聞いた」とした上で、「佐渡とか、言葉一つ一つには『そうかな』と思わせるようなところがいくつかあるが、『ここは違う』というところもある」と強調。「私が実際に見たわけではないので、母が書いたものかどうか、はっきりとした答えを出せない」と話した。
曽我さんは看護学院で学んでいた時に「母が借金をしてまで買ってくれた」という腕時計を今も大事に付けている。拉致された時も身に付け、北朝鮮で母がそばにいなくても、時を刻み続ける腕時計を見て母も生きていることを信じてきた。
着物を見つけ「涙が止まらなかった」
帰国後、自宅のタンスの中に仕付け糸がまだ付いたままの着物が大切に保管されているのを見つけた時は「涙が止まらなかった」という。ミヨシさんが曽我さんの20歳の成人式に向け「こっそりと準備してくれていたと思った」と話し、「母が帰ってきたら、ちょっと年には似合わないけれど、この着物を着て母と一緒に写真を撮りたい」と望む。
ただ帰国から22年経過しても再会できず、焦りは募るばかり。「あまりにも長い時間が過ぎてしまい、私もそれなりに年齢を重ねたが、母はそれ以上に年を取っている」と吐露。「日本での93歳は畑に出て、それなりの仕事をしている方も見かけるが、北朝鮮での93歳は日本とは全然違うと思う」と心配する。
「母ちゃん、いまどうしていますか。これから寒い冬がやってきます。体に気をつけて元気でいて、絶対に佐渡に帰ってくることを諦めずにいてね」。柿色と若草色に染まった成人式用の晴れ着を見つめながら、曽我さんは愛する母に向けてメッセージを語った。
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