11年前の10月17日。
将棋の第26期竜王戦七番勝負の第1局が始まった。
ライブ配信サービス「ニコニコ生放送」(株式会社ドワンゴ運営)による対局中継では、聞き手を務める女流棋士が、こう切り出した。
「今回、新しい試みということで、『評価関数』というのが表示されるんです」
その言葉を受けて、画面上部に細長いバーと数値が現れる。数値は、将棋ソフトによる形勢判断を表した「評価関数」、いわゆる「評価値」のことだ。
この時点で森内俊之名人に「75」、渡辺明竜王に「−75」という評価値が付けられている。
ほぼ真ん中で色分けされたバーは、その評価値を視覚的に表現したもの。つまり、まだ五分五分に近い形勢ということである。
これが、将棋の公式戦で初めて、AIによる「評価値」が登場した記念すべき瞬間だった。
番組で解説を務める木村一基(九段、当時は八段)が冗談めかして言う。
「そのうち解説もコンピューターがやり始めて、解説者が淘汰される時代が来るわけですね。まあそういう時代が来ないことをただただ祈るばかりです…」
いまや将棋中継に必須のツールとなった「AIの評価値表示」。
(ABEMAなどでは優劣の度合いを%で表す「勝率」が使われている)
実は元々は人間同士の対局ではなく、コンピューターと人間との対局において「コンピューターの思考を可視化する」ために開発されたものだという。
生み出したのは、将棋を愛するひとりのディレクター。
ニコニコ生放送(通称ニコ生)の将棋中継ほぼすべてに携わってきたというそのディレクターが、開発に至る経緯と将棋番組への思いを語ってくれた。
(文中、敬称略)
■ AIはついに人間を超えたのか?
「格ゲー(格闘ゲーム)のヒットポイントゲージみたいなのを画面の上に出せないかな?」
ニコ生で将棋番組を担当する月田拓(42)が、当時ドワンゴの会長だった川上量生(のぶお)からそんな提案を受けたのは、2012年のことだった。
ヒットポイントゲージとは、格闘ゲームでプレイヤーの体力の残量を示すゲージ(帯状のメーター)のこと。
ニコ生の将棋中継画面に「ヒットポイントゲージのようなもの」を出せないか、という提案だった。
当時の将棋界の状況を振り返っておこう。
2012年1月に行われた第1回将棋電王戦で、既に引退した棋士である米長邦雄(永世棋聖)がコンピューター将棋ソフトの「ボンクラーズ」に敗れた。
AIはついに人間を超えたのか?
将棋ファンにとどまらず、社会全体に関心が広がる中で、第2回将棋電王戦の開催が発表される。
今度は現役の棋士5人がコンピューターと団体戦で争うという趣向だった。
そして月田は、この第2回将棋電王戦のニコ生中継を任されていたのである。
人間とコンピューターの戦いで、どんな演出が求められるのか。月田は頭をひねった。
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すべてが「ガチャガチャガチャとかみ合った」「将棋などのマインドスポーツをコンテンツ化する際、対局者が考えていることをどうビジュアル化するかというのが番組作りの根幹なんですよね。昔から使われているのが、いわゆる『大盤』と呼ばれているもので、解説の棋士が、そこで駒を動かすことによって(対局者の考えを)ビジュアル化する」
だがそれはあくまで人間の思考を可視化するための手段だった。
「対局者がコンピューターだった場合、棋士に大盤で解説してもらったところで、コンピューターの考えていることのビジュアル化、可視化はできないんじゃないかと思っていました」
思い悩んでいた2012年5月、月田はコンピューターソフトの将棋大会(世界コンピュータ将棋選手権)の中継を担当する。
そこで、コンピューターソフトの形勢判断が「評価関数(評価値)」という数値によって表されることを知った。
優勢な側がプラス100とかプラス500とか、そういう数値で示されるのである。
まさに「コンピューターの思考」を可視化する指標だった。
そして、ドワンゴ会長の川上から投げかけられた「ヒットポイントゲージ」の提案。
月田はその言葉を聞いた瞬間、すべてが「ガチャガチャガチャとかみ合った」という。
「評価値をヒットポイントゲージにすればいい…」
月田の構想は大きく動き出した。
■ 「評価値バー」でざわつくコメント
第2回将棋電王戦の開幕戦 (画像提供:ニコニコ生放送)2013年3月、第2回将棋電王戦が開幕。
現役棋士とコンピューターとの団体戦で、評価値表示がついに登場した。
開幕戦は阿部光瑠(七段、当時は四段)とコンピューターソフト「習甦(しゅうそ)」の対局だ。
ニコ生の中継は、人間の棋士による解説とAIの評価値表示というハイブリッドで進められた。
スタジオの阿久津主税(八段、当時は七段)が、スタジオでおなじみの大盤解説を行っていると、10手目が指されたところで早くも「ボンクラーズの評価関数(評価値)を見てみましょう」というアナウンスが入る。
永世棋聖の米長を破ったAI、「ボンクラーズ」が形勢判断を担っているのだ。
中継画面の上部に示された評価値は、阿部−36、習甦36。
そして格ゲーの「ヒットポイントゲージ」に着想を得た「評価値バー」が、2つの数値の間に横たわっている。
青色と緑色に分けられた、その「評価値バー」は、習甦の青色がほんの少しだけ阿部の緑色を押し込んでいるはずだが、肉眼ではまだ見分けられない。
阿久津があきれたような声を上げる。
「やっぱりコンピューターはすごいですね、こんな早くから評価関数とか出せちゃうんだな。人間同士だと、まだ『おはようございます』と言った後の、次の会話をしている段階ですからね」
さらに阿久津は評価値の目安について、聞き手の女流棋士と会話を続ける。
「投了する瞬間だと2000点くらいの差があるという話は聞いたことあるんですけど。1000点くらい差があると結構逆転するのが大変、みたいな」
戦いは中盤から阿部がリードを奪い、評価値バーでも阿部の緑色が、少しずつ青色を押し込んでいく。
終盤、ついに阿部の評価値が2000点を超え、113手で習甦側の投了となった。
将棋中継に初めて登場した評価値表示。
視聴者の反応はどうだったのか。
ニコ生は視聴者の打ち込んだコメントが画面上を流れていくのが売り物のひとつだ。
月田によれば対局中、「AIによる評価値」を見てコメントがざわつく場面も何度かあったという。
「人間が見たらまだまだ互角なのに、表示ではこっちがかなり優勢だ、とか視聴者が考えていることと全然違う表示が出るとコメントがわーっと盛り上がっていましたね。『AIの思考の可視化』について皆さん、面白いと思ってもらえたんじゃないでしょうか」
次に目指すのは人間同士の対局での評価値表示。
だが、月田にはちょっとした懸念があった。
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■ 「コンピューターより羽生さんが強い」■ 「コンピューターより羽生さんが強い」
第2回将棋電王戦第2局でコンピューターソフトに敗れた佐藤慎一六段(当時は四段)第2回将棋電王戦は結局、コンピューターチームが3勝1敗1分と現役棋士を相手に勝ち越して幕を閉じた。
だが社会の空気は、それで直ちに「コンピューターが人間より強い」とはなっていなかった。
「世の中の声としては、まだまだ人間の方が強いんじゃないか、羽生(善治)さんのほうが強いんじゃないかみたいな声も多数ありました。そういう中で、人間同士の対局でAIの評価値が出てくることに違和感がある人は絶対にいたと思うんです」(月田)
一方で、将棋電王戦中継でのAI評価値が好評だったのも事実だった。
ニコ生ではその後もコンピューターソフト同士の対局を企画し、その中継を通じて評価値表示を浸透させていった。
やがて視聴者からは「(棋士同士の)タイトル戦でも評価値を出してほしい」という声が届くようになった。
2013年10月からの第26期竜王戦七番勝負を前に、月田は主催者である読売新聞社に中継番組での評価値表示を打診し、承諾を得た。
そして記事冒頭でも紹介した通り、竜王・渡辺明に時の名人である森内俊之が挑むという大勝負で、中継画面上に評価値とバーが表示されることとなったのである。
月田が振り返る。
「(反応は)ポジティブだったと思いますね。解説の棋士の方も、評価値や読み筋(AIが読むその局面以降の展開)を面白がってくれて、解説に生かしてくれたりして」
第4局の中継ではこんなこともあった。
大盤解説で登場した羽生善治(九段、当時は王位など三冠)が、ある局面での形勢について、後手の森内がやや優勢ではないかとの見立てを語る。
その直後、画面にAI(この時はPonanza(ポナンザ))の評価値が表示され、羽生と同じく「後手やや優勢」を示す。
すかさず画面上には「Ponanzaやるな」というコメントが流れる。
確かにこの時、視聴者はAIよりも羽生の形勢判断のほうを信用していたのである。
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■ 藤井聡太も「泣きたい…」 無情の評価値表示■ 藤井聡太も「泣きたい…」 無情の評価値表示
前人未到の29連勝を達成するなど社会現象を巻き起こしていた藤井聡太四段(2017年6月当時)それから4年。
月田が開発した評価値表示は、若き天才棋士の劇的な一戦で最大限の効果を発揮することになった。
2017年12月23日にニコ生で中継された、第3期叡王戦本戦トーナメント。
デビュー戦から29連勝という新記録を達成し、その後も驚異的な勝率で勝ち続ける藤井聡太(七冠)の登場である。
当時まだ四段だった藤井の相手は深浦康市(九段)。
タイトル経験者でもあるベテラン棋士との戦いだったが、藤井は中盤で圧倒的な優勢を築き、114手目の局面での評価値は「2312」。
勝利はほぼ確実という数値だ。
ただ、この時点で藤井は持ち時間を使い切り、一手1分未満で指さないといけない「1分将棋」。
秒読みに追われる中で疑問手が出た。
この瞬間、ニコ生「評価値」が真骨頂を発揮する。
2000以上あった評価値が一気にマイナスに。
画面は「あああああ」というコメントの文字で埋め尽くされた。
実は人間同士の対局中継で月田は、評価値を画面に出しっ放しにしない。
普段は棋士の姿と盤面だけを見せておいて、ここぞというタイミングで評価値と評価値バーを表示する。
それは将棋番組を面白く見てもらうための、演出上の狙いだった。
「将棋のような長時間の生放送をやる上では、緩急が重要だと思ってるんですね。フラット(平坦)な状態の中に臨時ニュースが突然入るように、それまでの棋士の解説とはかけ離れた、AIによる『第3の意見』みたいなのが入って解説者も驚いたりする、そういうところを意図的に作って視聴者の興味を引く番組作りをしていた。だから評価値がガクンって行ったり来たりするだろうところも全部予測して、表示するしないの判断は狙ってやっていました」
2人の戦いはその後、二転三転するが、再び藤井にミスが出て形勢は決定的となった。
155手目の局面、満を持して評価値が表示され、藤井「−2488」が「−9999」へと変わる。
藤井側の玉が詰まされる、とAIが判断したのだ。
負けを悟った藤井が脇息(ひじかけ)に突っ伏す。
画面はふたたび「あああああ」のコメントで埋め尽くされ、解説棋士の中村太地(八段、当時は王座)が「これは確かに泣きたい…」とつぶやく。
評価値表示がドラマチックな結末を最大限盛り上げた中継だった。
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■ 「棋士が自分の演出に付き合ってくれる」幸せ■ 「棋士が自分の演出に付き合ってくれる」幸せ
月田がAIの評価値や読み筋を出しっ放しにしない理由はもうひとつある。
「AIの指す手が正しいという前提になってしまうと、逆に、その手を指さなかった棋士が『外しちゃったんだ』とか何かミスをしたと見られてしまう。棋士に関してネガティブに映ってしまう可能性がある」
月田は将棋アマチュア三段の実力者でもある。
自らの判断で、ここで評価値や読み筋を出しても棋士をおとしめることにはならないという時にだけ表示する。
そこにあるのは棋士への深いリスペクトだ。
岡山県で青春時代を過ごした月田。
中学3年生で将棋と出会い夢中になった。
だが岡山では周りにプロの棋士もおらず、基本的な情報は将棋の本や雑誌で集めるしかなかった。
東京に出て、テレビの制作会社を経て2011年夏にドワンゴに入社。
わずか数カ月後、ニコ生が将棋中継を始めることになり、月田がその担当を任された。
そこで、本や雑誌の中でしか知ることのなかった棋士たちと直接会うことができるようになった。
「感覚的には、大好きな本を書いた小説家の先生と会えたみたいな感じなんですね。すごく遠い存在だったのが、解説のために来てくれて、さらには僕の演出につきあってくれて、将棋の話だけじゃなくて雑談も含めて一緒に番組を面白がってくれた。個人的にはそれがすごく嬉しかったですね」
単なる解説者ではなく、一緒に番組を作ってくれる棋士。
「すべての先生に対してそういう尊敬の気持ち、一緒に番組を作ってるぞ、という幸せがずっとありましたね。この仕事ができて幸せだったなっていう感じですね」
そんな月田が開発したAIの評価値表示が、人間同士の対局で初めて使われてから11年。
「絶対王者」藤井聡太に佐々木勇気(八段)が挑む第37期竜王戦七番勝負は、19日に第2局が始まった。
ABEMAの中継ではもちろん、画面上にAI評価値が「勝率」の形で表示されている。
終盤、その数値が激しく揺れ動いて視聴者が一喜一憂する場面が訪れるかもしれない。
「コンピューターの思考が知りたい」から始まって、将棋中継をより楽しく見てもらうために進化を続けた「評価値表示」。
開発者である月田がリスペクトしてやまない棋士たちの真剣勝負を、これからも大いに盛り上げていくに違いない。
(テレビ朝日報道局 佐々木毅)
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