太平洋戦争末期の1944年から45年にかけ、福島県いわき市勿来(なこそ)町などから米国に向けて放たれた「風船爆弾」にまつわる資料の展示などを行う企画展「語り伝えたい記憶~風船爆弾と学徒動員~」が25日から、市勿来関文学歴史館で開かれる。今年は最初の風船爆弾が飛ばされて80年の節目で、風船爆弾の目撃者など貴重な証言が集まったことなどから企画した。【柿沼秀行】
風船爆弾は和紙をこんにゃくのりで貼り合わせた直径約10メートルの気球に爆弾をつるして作った兵器。米国本土に向け、偏西風に乗せて計約9300発が勿来町のほか千葉県や茨城県から飛ばされ、約1000発が北米大陸に到達。米オレゴン州で子どもら6人の犠牲者を出している。
同館によると、「ふ」号作戦と呼ばれた秘密作戦で、勿来町にあった基地の存在なども隠され、ほとんどの関連資料は終戦後に失われたという。実際に爆弾に使われた和紙の一部や10分の1の模型など約20点を展示するほか、市民から聞いた学徒動員などの証言を紹介する。
担当する学芸員の渡辺千香さんは「風船爆弾と聞くと、のどかなイメージがわくが、当時の最先端の科学的な知識を駆使して作られた兵器。しかも作らされていたのは10代の子どもたちで、知れば知るほど怖くなる。世界で紛争が起きている今こそ、同年代の子どもたちに当事者意識で見てもらえたら」と話している。
会期は9月1日まで。会期中の主なイベントは、実際に爆弾が落とされた現場の取材を通して制作された、いわき市在住の現代アーティスト、竹内公太さんの作品展示(5月3~12日)▽勿来基地周辺の散策や竹内さんによる作品解説「町歩き+ギャラリーツアー」(5月3、12日午後1~3時)▽講演会「資料から見た風船爆弾~開発者の視点・気象学者の視点~」(6月23日午後2時)――など。問い合わせは市勿来関文学歴史館(0246・65・6166)。
「平和の尊さ伝えたい」
企画展では、風船爆弾について調べてきた高橋冨美(ふみ)さん(94)=いわき市錦町=の体験談も紹介される。自身は神奈川県横須賀市で学徒動員され、過酷な経験をした。体験を通し平和の尊さを伝えたいと願う。
高橋さんは1944年11月、旧磐城高等女学校(現磐城桜が丘高校)3年のとき、横須賀市の海軍工廠(こうしょう)に学徒動員され、軍艦の部品を修理する仕事に就いた。日に日に戦争が激しくなり、連日、米軍の爆撃機が頭上をかすめるようになった。
終戦間際の45年7月ごろ、港に係留中の戦艦「長門」が激しい攻撃を受け、大勢の乗組員が死亡した。近くのドックで作業していた高橋さんら女学校の仲間たちも攻撃を受けたが、無我夢中で防空壕(ごう)に逃げて助かったという。
朝になって防空壕を出ると、横浜、川崎市方面が見渡す限り、オレンジ色に染まっていた。空襲で街が焼かれた光景だった。「今も目に焼き付いて離れない」と振り返る。
そのまま終戦を迎え、いわき市に戻って結婚。4人の子どもに恵まれた。風船爆弾を放つ基地は嫁ぎ先の家のそばにあり、家では軍の上官を住まわせていたことなどを義父母から聞かされ知っていた。それでも、子育てに追われ、日々の暮らしの中で記憶の奥にしまいこんでいたという。
新たな衝撃としてよみがえったのは2019年12月の毎日新聞の記事だった。作家の高橋光子さんが、風船爆弾を作った日々を振り返っていた。ほぼ同年代。和紙を貼り合わせるのにあかぎれをつくり、漆にかぶれて、指紋がなくなるほど手指を酷使したことが書かれていた。こうした体験を子どもたちに向けた小説に著し、話しているという。
この記事に勇気をもらい、高橋さんも調べてみた。既に遺構などは壊され、残っていなかったが、資料を集めたり、知人を通して体験を聞いたりした。昨年夏には、風船爆弾を題材にした現代アーティスト、竹内公太さんの展覧会を見に、東京まで足を運んだ。
調べて痛感したのは「近所の顔見知りの人たちが『お国のために』と洗脳され、戦争に突き進んでいた。私も同じ。改めて戦争の怖さを思い知った」ということだ。今も続く世界の紛争も、ニュースで見て胸を痛めている。「人種や世代が違っても平和を願う人の気持ちは変わらないはず。私の体験が少しでも役立てばうれしい」。ますます気力を充実させている。【柿沼秀行】
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