厚さ0.02ミリの和紙を持つ鎮西寛旨(ちんぜい・ひろよし)社長=高知県日高村で、前川雅俊撮影

 顧客は大英博物館やルーブル美術館、米メトロポリタン美術館――。文化財修復のために、世界中が買い求める厚さわずか0・02ミリ、1平方メートル当たりの重さ1・6グラムの世界一薄い和紙を機械ですく会社が高知にある。

 高知市中心部から車で30分ほど、「仁淀ブルー」で知られる清流・仁淀川が流れる人口約4700人の日高村。小川や畑に囲まれた村の外れにある社員10人ほどの「ひだか和紙」だ。小さな工場内で、世界で最も薄い和紙が抄紙機(しょうしき)と呼ばれる紙をすく機械からゆっくりとはき出され、ロール状に巻き取られていく。「穴を開けず、均質に製品化するのが難しいんです」。社長の鎮西(ちんぜい)寛旨(ひろよし)さん(56)は話す。

 文書に重ねると細かい文字がはっきり読めるほど薄くて丈夫で、黄ばみや変色にも強い。少ない注文数でも細かい要望にオーダーメードで応え、文化財や美術品の元の風合いを壊さない同社の極薄和紙は世界中の保存修復現場で高い信頼を得ている。今や売り上げの4割が文化財修復用で、その9割は海外だ。

 いの町を中心に1000年以上前から作られてきた土佐和紙。福井県の越前和紙、岐阜県の美濃和紙と並び、日本三大和紙の一つとされている。明治時代に生まれた「土佐典具帖紙(てんぐじょうし)」は手すきで厚さ0・03~0・05ミリの薄さで知られる。この技術を基礎にして、世界で最も薄い和紙の機械による大量生産を実現。コストを抑えて求めやすい価格で供給できるのが同社の強みだ。機械で紙をすく工程以外は、職人が手間を惜しまず丹念に材料の下処理をしていく。

 ひだか和紙は1949年、鎮西さんの曽祖父が創業した。もともとは手すきで典具帖紙などを作っていたが、69年に機械による紙すきに切り替えた。家業を継ぎたくなかった鎮西さんは高校卒業後、アメリカに留学。6年半ほど金融学などを学んだ後に帰国した。別の会社で営業などをしていたが、跡を継がざるを得なくなり34歳でひだか和紙に戻った。当時、売り上げのほぼ全てがOEM(相手先ブランドによる受託生産)で、障子やふすま、ラッピング用の紙などを作っていた。生活様式の変化で和室がない住宅が増えるなど和紙の需要が減少する中、活路として考えたのが文化財修復への用途だった。

 最初は手探りだった。販路を開拓するために、「サンプルを作って、いろんなところに郵便で送りました」。東京・浅草寺宝蔵門の右側の仁王像「吽形(うんぎょう)像」の修復に採用されたことをきっかけに、文化財保存修復学会の賛助会員になった。修復について高いノウハウを持つ国立公文書館に教えを請いながら、極薄和紙の開発を始めた。

 鎮西さんは社員2人とともに仕事が終わった夜中などを利用し、原料や水の分量、機械のスピードなど試行錯誤を繰り返して微妙なバランスを突き詰めていった。当初は1平方メートル当たり3~4グラムが限界だったが、3年ほどたった2013年、1平方メートル当たり1・6グラム、厚さ0・02ミリの和紙の開発に成功。薄くて丈夫な和紙の評判は世界中に広まった。

海外取引 かつての経験生かし

 海外との取引には、鎮西さんのこれまでの経験が生きている。英語のパンフレットやサンプル帳を作成。海外の学会や展示会に売り込みに出かけ、顧客との英語での対応も一手に引き受けている。

 ひだか和紙は1000以上の色を繊細に作り分けるノウハウも持つ。和のテイストと独特の風合いを生かし、これまで新国立競技場などのVIPルームの内装に採用された。さらにインバウンドが増える中、海外富裕層向けのラグジュアリーホテルから部屋の壁紙としての引き合いが増えているといい、23年には新規の大きな取引が3件始まった。

 「米国では大型アート作品への需要が期待できそうです」。鎮西さんは独自技術が詰まった和紙の新たな可能性を信じている。【前川雅俊】

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