「佐賀の乱(佐賀戦争)」と併記された帝国書院の教科書=2024年9月13日午後5時2分、五十嵐隆浩撮影

 初代司法卿として、司法制度の確立に尽力した江藤新平(1834~74年)が首謀者とされ、政府に対する反乱とされた「佐賀の乱」を捉え直す動きが県内外で出てきている。2025年度から中学生が使う教科書の検定では「佐賀戦争」と併記した教科書が初めて合格。江藤の名誉回復に向けた県のプロジェクトの進展にも追い風となっている。

 佐賀の乱は1874(明治7)年2月に佐賀で勃発した不平士族と明治政府との争い。朝鮮派遣を巡る政府内の分裂「明治六年の政変」で下野した江藤らを担いだが、鎮圧軍に苦戦。江藤は再起を図り、東京を目指す途中の高知で逮捕され、佐賀で処刑された。

 県文化課によると、明治政府との争いでは鎮圧軍の全権を担った大久保利通(30~78年)らが政府の権威を示すために鎮圧に動いたとする資料が残される一方、江藤とともに反乱軍を率いた島義勇(22~74年)が不平士族をなだめるために佐賀に戻ったと推察される資料も残されており、江藤らが巻き込まれたとの見方もあるという。

 県は江藤の没後150年に合わせて今年から「江藤新平復権プロジェクト」を展開。3~5月に県立佐賀城本丸歴史館(佐賀市)で開催した特別展では「佐賀の乱」ではなく「佐賀戦争」と紹介し、資料の展示で江藤が巻き込まれたとされる側面に光を当てた。

 こうした地元の動きに帝国書院が注目し、中学の歴史教科書で「佐賀の乱(佐賀戦争)」と併記。25年度からの教科書検定に合格した。

 帝国書院の担当者は「士族の反乱は広く意見を聞いて政治を行うとしていた明治政府が実際には一部が権力を握る藩閥政治だったことへの異議申し立てという視点もある」と解説する。その上で「佐賀では佐賀戦争とも呼ばれているので、地域の呼び名を大事にしたかった」と説明し、「違う視点から見ると、違う歴史が見えてくる。中学生には多角的、多面的に考察してもらいたい」と話す。

 県文化課は「教科書の表記は復権プロジェクトの後押しになる。功績に光を当てて江藤は罪人とのイメージを払拭(ふっしょく)し、県民に誇りを持ってもらいたい」としている。【五十嵐隆浩】

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