ロシアによるウクライナ侵攻で、日露関係が悪化している。過去を振り返っても日露戦争以降、両国間には対立がつきまとうが、大阪府泉大津市には捕虜だったロシア兵たちが眠る墓がある。今年は日露開戦120周年。墓周辺を訪ねると、国家同士の関係を超え、草の根で努力を続けてきた人たちの姿が見えてくる。【小宅洋介】
南海本線泉大津駅から歩いて7分。住宅に囲まれた場所に「春日共同墓地」があった。通常の縦長の墓石が並ぶ中、一角だけ見かけが異なるお墓がある。横長のゴツゴツした墓石で、ロシアなどで使われるキリル文字が書かれている。
日露戦争当時は、全国に計29カ所の捕虜収容所が建てられ、高石市と泉大津市に連なる沿岸部にも浜寺捕虜収容所があった。1905年1月~06年2月にかけ、最大で約2万8000人の捕虜が収容された。激戦地の旅順から連れてこられた兵士が多かったという。収容時に亡くなった89人が春日共同墓地で眠っている。
泉大津市教育委員会の奥野美和さんは、2017年度に墓の区画の変遷を調査。当時の陸軍の文書や市所蔵の関連資料を照らし合わせた。1928年ごろに墓地整理があり、89基のうち9基だけ改葬されたとみられるが、それ以外は当時のままだったことがわかった。奥野さんによると、松山などにもロシア兵の墓があるが、多くが他の場所に移されるなどし、泉大津のように当時の姿をとどめている例は珍しい。
では、なぜ100年以上にわたり墓が存続してきたのか。奥野さんが調査で実感をしたのが、地元住民の尽力だ。そもそも墓地は、近隣の村々が所有する共有地だった。陸軍から「ロシア兵のために利用できる土地がないか」と尋ねられ、住民たちが一部区画の寄付を申し出た。「異国で亡くなったロシア兵に対する敬意があったのでしょう」と奥野さん。以降も、地元住民が墓の清掃や管理を担ってきた。
今でも年に一度、墓での慰霊を実施しているのが、吹田市の大阪ハリストス正教会だ。国内の正教会は戦時中、ロシア兵の慰問のため全国の収容所に神父を派遣していたという。
正教会の機関誌「正教新報」には、浜寺のロシア兵たちにした手厚いケアの様子が伝わる。当時の神父の報告では、収容所で落雷が発生し、捕虜が4人死亡。陸軍からの「荘厳な埋葬を」との依頼を受け、墓地に手厚く葬った記録が残る。
1906年に収容所は閉鎖。祖国に帰ったロシア兵たちは没した仲間の慰霊のために、教会に献金をし、大阪正教会が大阪市中央区に建立した聖堂の資金の一部にあてられた。
この聖堂は太平洋戦争時の米軍による空襲で焼失し、62年に吹田市に現在の教会が建てられたが、かつての聖堂の鐘は今も教会で使われている。
現在の教会には日本人だけでなく、ロシア人やウクライナ人など多国籍の信徒がやってくる。大阪正教会のゲオルギー松島雄一さん(72)は「さまざまな信徒が集まり、ウクライナやパレスチナ自治区ガザ地区など紛争地の人々のため祈りをささげている」と話す。
65年に当時の旧ソ連大使館がこの墓地の存在を知ったのをきっかけに、国内のロシア人たちも墓参に訪れるようになり、地域との交流が生まれたという。
この夏、墓を訪ねると、全てのロシア兵の墓に真新しい造花が供えられ、清掃も行き届いていた。
日露戦争以降も第二次世界大戦や東西冷戦時代があり、今も両国間では緊張が続く。ただ、足元では草の根の取り組み、交流があり、ロシア兵墓地が地域にしっかり根付いていることが伝わってくる。
鄭重声明:本文の著作権は原作者に帰属します。記事の転載は情報の伝達のみを目的としており、投資の助言を構成するものではありません。もし侵害行為があれば、すぐにご連絡ください。修正または削除いたします。ありがとうございます。