被爆体験者の原告44人のうち15人のみを被爆者と認めた9日の長崎地裁判決を受け、被告の長崎市と県、被爆者援護を所管する国は勝訴原告15人について控訴するかを検討している。勝訴した一人で旧古賀村(現長崎市)で原爆に遭った松田宗伍(そうご)さん(90)=同市=は、10年前に手術した心臓大動脈弁の「寿命」が迫る。「私はもう先がない。控訴して引き延ばされたら何年も裁判を続けるのは無理」と訴える。【尾形有菜、樋口岳大】
シャツをめくった左胸の皮膚には、ペースメーカーが浮き上がって見えた。
心臓を患い、2015年2月に大動脈弁を牛の生体組織からできた弁に置き換える手術を受けた。医師からは「手術をしなければ余命3年、手術をすれば10~15年」と言われた。手術は成功したものの2年半前には弁の動きが悪くなり、ペースメーカーを埋め込んだ。今も心拍数が増減し苦しむ時がある。
米軍が原爆を投下した79年前、11歳の松田さんは爆心地の東約9キロの自宅近くで墓の掃除をしていた。飛行機の音の後、木陰に積もった葉っぱがはっきり見えるほどの強烈な光線に見舞われ「ドドーン」と爆音が聞こえた。
みるみるうちに空が暗くなった。太陽が煙に巻かれたようにぼんやりとしか見えなくなり、真っ黒な灰や燃えかすが降ってきた。野菜の葉に積もり、水くみ場にも降り注いだ。
次兄が動員されていた三菱重工長崎兵器製作所大橋工場(爆心地の北約1.2キロ)の書類の燃えかすも落ちてきて、母は「工場がやられたんじゃないか」と顔を曇らせた。松田さんは病身の父に付き添って何度も兄を捜しに行ったが見つからなかった。これまでに入市被爆でも被爆者健康手帳の交付を申請したが、証人が見つからず却下された。
長崎地裁判決は、原爆投下後に「黒い雨」で放射性物質が降ったと認めた旧古賀村、旧矢上村、旧戸石村にいた15人のみを被爆者と認めた。だが、松田さんは「雨だけに放射性物質が含まれているわけではない。灰が飛散したところに雨が降ったから雨は黒くなった。灰も雨も同じように放射能があった」と指摘する。
判決で自分が被爆者と認められたことに安堵(あんど)しながら、原告が「分断」されたことに心を痛める。「原告団長の岩永千代子さんに一番、手帳をあげたかった。『代わりに私の手帳をあげます』とも言いきらんし、どうすればいいのか……」
全員の救済を勝ち取る突破口とするためにも、長崎市と県、国が控訴せず、手帳を交付することを心から願っている。「控訴されたらとてもじゃないが、私の命は間に合わない。広島では爆心地から30キロ離れた人も被爆者と認めながら、長崎の私たちを認めないというのは差別も甚だしい。どうやっても死にきれない。諦めきれないから、岸田文雄首相を恨んで死にます」
同じく旧古賀村で原爆に遭い、判決で被爆者と認められた妻ムツヱさん(86)も「広島と差別なく受けられるようにしてほしい」と声を絞り出した。
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