「なぜ証言を信用してくれないのか」と訴える松尾栄千子さん=長崎市2024年9月11日午前11時27分、尾形有菜撮影

 国が指定した援護区域外で原爆に遭った被爆体験者44人が被爆者健康手帳の交付を求めた訴訟で、9日の長崎地裁判決は爆心地東側の旧矢上村、旧古賀村、旧戸石村(現在はいずれも長崎市)にいた15人を被爆者と認めた一方、残る29人の請求を棄却した。旧日見村(現長崎市)で原爆に遭いながら被爆者と認められなかった原告の松尾栄千子(えちこ)さん(83)=長崎市=は「がんなどの病気になったのは内部被ばくが影響している。被爆者と認めてほしい」と訴える。【尾形有菜、樋口岳大】

 判決の9日、松尾さんは長崎地裁まで行くことができなかった。皮膚がんの手術を8回受け、夏の強い日差しに当たらないよう医師に言われているためだ。記者から電話で請求棄却を伝えられ、「だめやったとですか」と肩を落とした。

 松尾さんが4歳の時、爆心地の東約8キロの日見村の海岸で遊んでいると、閃光(せんこう)で目の前が真っ白になった。強風に飛ばされそうになりながら必死に近くの友人宅に避難。飛んできた土砂が手足に当たり痛かった。

 友人宅のトタンの外壁は飛ばされ、内側の土壁も崩れて穴が開いた。そのすき間から外を見ると山の木が弓のように曲がり、灰や燃えかすが降っていた。帰宅すると窓ガラスが割れて建具が壊れ、吹き込んだ土砂や灰でザラザラとしていた。

 灰が積もり黒いしずくが垂れた畑の野菜や海の魚介類を食べ、山の水を飲んだ。野菜の葉からは黒いしずくが垂れていた。「東京電力福島第1原発事故の時、国は周辺住民を避難させたが、私たちは放射性物質の恐ろしさを何も知らずに暮らし続けた」

 全身に吹き出物ができ、貧血や体のだるさに苦しんだ。4年後、小学生だった松尾さんは自宅で寝込み、被爆時に一緒にいた幼なじみの女児も入院した。母親たちは「はやり病だ」と話していた。松尾さんは回復したが、幼なじみは白血病で死亡。松尾さんの母も原爆投下から11年後、骨のがんで49歳の若さで亡くなった。

 松尾さんは48歳と65歳の時に右の乳房のがんを摘出し、75歳の時には左の乳房でもがんが見つかり手術を受けた。被爆体験者が被爆者健康手帳を求めた訴訟が2007年に始まり、松尾さんも参加したが17年に最高裁で敗訴。18年に改めて今回の訴訟を起こした。

 今年8月9日には、岸田文雄首相が初めて原告団長の岩永千代子さん(88)らと面会し、松尾さんは「今度こそ」との思いで判決を待った。だが、長崎地裁は矢上村、古賀村、戸石村のみに放射性物質を含んだ黒い雨が降ったとして一部の原告だけを被爆者と認め、松尾さんらを切り捨てた。

 「裁判所や国が『健康被害の根拠がない』と言うのは誤りだ。私たちは体験した事実を証言している。首相は全ての被爆体験者を救済してほしい」。松尾さんはそう願っている。

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