「カタギ、カタギ、カタギ……」。机の上に置かれた1枚の古い集合写真。一人一人の顔を指さしながら、特定危険指定暴力団「工藤会」(北九州市)の元組員の男性は言った。カタギとは一般市民を意味する。男性自身も含め、写真に写る多くの人がこの10年で工藤会と決別したという。
福岡県警は2014年9月11日、市民に対する殺人容疑などで工藤会トップの総裁、野村悟被告(77)=1審で死刑、2審で無期懲役、上告中=を逮捕。これが工藤会への「頂上作戦」の幕開けとなり、組幹部も次々と逮捕していった。
古参組員によると、当初は「県警のパフォーマンス」と楽観的に見る向きもあったという。「すぐ帰ってくるけの」。余裕たっぷりに周囲にそう告げたとされる野村被告。だが、実際は計6回逮捕された。「蓋(ふた)を開けてみたら、10年」。ある時期まで野村被告の帰りを待ち続けたという元組員の男性は振り返る。シノギ(資金獲得活動)が厳しくなっても、頂上作戦から5年以上は高級車やブランド品など私財を売却するなどして耐えたが、生活苦から離脱は避けられなかったと明かす。
山口組とも血で血を洗う抗争
工藤会は戦後の混乱期に旧小倉市(現北九州市)で生まれた博徒集団が起源とされ、1960年ごろに九州最大の暴力団となった。製鉄で沸く北九州地区への進出を狙う全国最大の暴力団・山口組と激しく抗争し、その存在が全国区に。意に沿わないと一般人をも襲撃する凶暴性を背景に、建設会社役員や飲食店主らにみかじめ料(用心棒代)を要求して資金を増やし、勢力を拡大していった。
関係者によると、野村被告は、身内の組員でさえ自身の意に逆らうと襲撃する姿勢を示し、恐怖で組織を支配した。一方、上からの指示通りに市民らを襲撃すれば報酬を与えたり、昇格させたりしたとされる。元組員は言う。「『家に向けて発砲しろ』と言われたら普通『ガラスの向こうに人がいたらどうする』と考える。でも、当時は出世のための仕事だとしか思わなかった。工藤会での常識は、一般社会の非常識」
みかじめ料の支払いなどに応じない飲食店や建設会社が襲撃された事件は野村被告が実質トップとなった00年以降、少なくとも30件発生。やりたい放題の姿勢に県警が業を煮やし、頂上作戦へとつながった。
トップの逮捕 捜査の歯車が回り出す
「とにかく早く襲撃を止めたかった」。作戦を指揮した尾上(おのうえ)芳信・元福岡県警刑事部長は明かす。実は当初、野村被告を逮捕できると踏んでいたのは元漁協組合長射殺事件(98年)と看護師刺傷事件(13年)の二つだけだったという。だが、野村被告を逮捕すると、上層部の方針に違和感を抱いていたとみられる一部の組員らが自供を始めた。野村被告が立件された市民襲撃事件は計4事件に拡大。他の未解決事件の捜査も進展し、多くの組幹部を逮捕できるまで頂上作戦は拡大していったという。尾上さんは「トップを捕まえたことで、『もう大丈夫だ』と警察に協力する人も出てきた」と語る。
歯車が回り出し、県警は、新供述を基に次々と立件。14年9月~23年に延べ451人の工藤会組員を検挙した。13年末に県内で540人いた組員は、23年末に3分の1以下の160人に減少。工藤会にいても昔のように稼げなくなる中で「金がない」と言って会を去り、絶縁された幹部もいたという。
特に若い組員が激減した。作戦前に30人以上いた20代以下の組員は今はわずか1人だ。
ただ、10年を費やしても、工藤会の壊滅には至っていない。60年代に工藤会の前身組織が山口組との抗争事件を繰り返した際も県警は組員らを多数逮捕し、壊滅まであと一歩のところまで追い詰めたが、服役後の組員が次々と組織に戻った歴史がある。その後、工藤会は勢力を拡大し続け、08年末に県内で730人の組員を誇るまでになった。
「1人でも残っていれば、作戦達成ではない。組員の離脱や、離脱のための就労支援を進め、未解決事件の検挙もあきらめない」。県警幹部は強調する。攻防はまだ終わらない。
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工藤会の壊滅を目指す頂上作戦の着手から11日で10年。組織は弱体化し、街は明るさを取り戻したが、新たな課題も浮かぶ。現状を追った。
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