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「私たちを見つけてくれてありがとう」

太平洋戦争から、79年。日本から3300キロ離れたフィリピンの離島、電気も水道もない場所で、私は彼女たちに出会った。戦前、フィリピンに移住した日本人を父に持ちながら、戦後の混乱で日本国籍を得られなかった「無国籍」の残留日本人2世たち。80歳以上となった今も、生き別れた日本人の父の影を追い求めている。命の灯が消えるその前に、日本国籍の回復を求める彼女たちがどうしても伝えたい想いとはーー。

(テレビ朝日報道局 松本健吾)

この記事の写真は9枚 “最後の秘境”と呼ばれるフィリピン・リナパカン島に住む無国籍の残留日本人2世のウエハラ・パムフィラさん、トミコさん、トヨコさん姉妹

■「私たちは日本人になりたいんじゃない。日本人なんだ」

首都マニラからプロペラ機とボートを乗り継ぎ5時間、ウエハラ・パムフィラさん(86)さんは、“最後の秘境”と呼ばれるリナパカン島に住んでいた。電気も水道もないこの島に、妹のトミコさん(83)、トヨコさん(80)の3人で暮らし、身をひそめながら生きてきたという。

戦前のフィリピンでは麻の栽培が盛んで、約3万人の日本人が移住。姉妹の父ウエハラ・メイトクさんのように現地の女性と結婚し、家庭を持つ人も多くいた。しかし、1941年の日米開戦後、日本軍がアメリカ統治下のフィリピンに侵攻。その地で暮らしていた日本人も、ゲリラ兵などの憎悪の対象になり、殺害された人もいた。

戦前のフィリピンに移住した日本人

開戦時、マニラの近くで暮らしていたウエハラさん一家。父は日本人の子どもだと分かれば娘たちがゲリラに殺されると考え、「ウエハラ」を名乗ることを禁じたと教えた。

「覚えているのは日本兵が『戦争が始まったから』と言って、私の父をトラックに乗せて連れて行ったことです」。父親は帰ってこなかった。その後、ウエハラさん姉妹は、フィリピン人の母とともにリナパカン島の親戚を頼って移り住んだものの、貧困に苦しみ、小学校までしか通えなかった。「10代のころは農作業をさせられ、私たちは森の茂みに隠れて泣きました。島にいる私たちの目の前に、父が姿を見せることを祈りました」

リナパカン島で暮らす子どもたち

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■日本の敗戦、フィリピンとの国交断絶で失われた国籍

■日本の敗戦、フィリピンとの国交断絶で失われた国籍

さらに、 もうひとつの大きな壁がウエハラさん姉妹には立ちはだかる。 「国籍」という問題だ。当時のフィリピンは「子どもは父親の国籍に属する」と、定められていた。しかし、敗戦後は10年以上の間、国交が途絶え、父の祖国である日本との関係も断ち切られることに。結果、フィリピン人でも日本人でもない、「無国籍」状態となってしまったのだ。

「私たちが過ごしてきた幼少期を、きっとあなたは想像もできないでしょう。とても辛い日々でした。 もし父がいてくれたら…こんな経験はしなかった」目に涙を浮かべながら、当時を振り返るウエハラさん。そして最後に私たちに訴えた。

「私たちは日本人なんです」と訴える、無国籍残留日本人2世のウエハラさん

「『日本人になりたい』んじゃない。私たちは日本人なんです。私たちは感謝しています。あなたがた『日本』が私たちを探しにきてくれた。日本人の子どもとして生まれたことに後悔などありません」

取材から1年たった今年2月。ウエハラさん姉妹に進展があった。一番下の妹・トヨコさんの日本国籍の回復が認められたのだ。

日本国籍の回復のためには、父子関係を証明する必要があり、両親の婚姻証明書や本人の出生記録などが必要だ。今回、国籍回復を支援するNPO法人「フィリピン日系人リーガルサポートセンター」の調査で、トヨコさんの出生証明書がマニラで発見された。父親の欄に「Japanese」、さらに、メイトクさんの名に近い「UEHARA MITOKU」と記載されていたのだ。こうした証拠をそろえ、戸籍を作るための手続き「就籍」を日本の家庭裁判所に申請し、日本国籍の回復につながった。

姉のパムフィラさんとトミコさんの書類は見つかっていないため、トヨコさんとの姉妹関係をDNA型鑑定で証明するなどして、国籍回復を目指すことになる。

ウエハラ・パムフィラさん(86)トミコさん(83)トヨコさん(80)姉妹
1)父の名は、「ウエハラ・メイトク」
2)漁師で「ある日、日本兵が父をトラックの荷台に乗せていき、帰ってこなかつた」
3)米軍捕虜名簿の記録に「上原明徳」の名。戦後、日本に帰国か

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■「なぜ日本国籍にこだわるのか」質問した私に彼女は…

■「なぜ日本国籍にこだわるのか」質問した私に彼女は…

リナパカン島に住む、無国籍残留日本人2世のモリネ・エスペランサさんとリディアさん姉妹

モリネ・エスペランサさん(86)と妹リディアさん(84)姉妹も、ウエハラさん姉妹と同じリナパカン島に住んでいる。親戚に聞いたのは「モリネ・カマタ」という父の名と、顔を覆うほどの髭だったという。

私たちの訪問を笑顔で出迎えてくれたリディアさん。インタビューでは、はっきりと「モリネカマタ」「オキナワ」と日本語で答えた。

「親戚は私に父の名字を名乗らせませんでした。もし日本人の子どもだということが知られたら殺されるから」。人目を避け、ひっそりと姉のエスペランサさんと2人で支え合いながら生き抜いてきたと話してくれた。

私には、このフィリピン残留日本人2世の問題を取材する中で、気になっていたことがあった。それは「どうして彼女たちは日本国籍にこだわるのか」ということだ。

「国籍回復」という高いハードルを越えようとするモチベーションはどこから来るのだろうか。訪れたこともない日本から数千キロ離れたこの離島で。

私は姉・エスペランサさんに直接尋ねた。

「どうして日本国籍を取得したいんですか?」

質問を聞いたエスペランサさんは、まっすぐと私の目を見て答えた。

「父が日本人だから。日本人の血が私にも流れているから」

取材を終えた記者に手を振って別れを告げるエスペランサさん

2日間の取材を終え、リナパカン島を離れる時、ウエハラさん、モリネさん姉妹はともに波止場まで見送りに来てくれた。

ボートが沖に出て、私たちの姿が見えなくなるまでずっと手を振り続けるその姿は、幼いころに生き別れた父の祖国・日本からやってきた「日本人」との別れを惜しんでいるようだった。

「彼女たちが日本国籍に求めているのは、自身の存在への証明なのかもしれない。戦争によって奪われた、当たり前の日常にいたはずの父との繋がりを求めているのかもしれない」

そう思うと、グっと胸が締め付けられた。

モリネ・エスペランサさん(86) 妹リディアさん(84)
1)父の名は「モリネ・カマタ」
2)沖縄出身、職業「漁師」
3)顔を覆うほどの髭が特徴的

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■新たな調査で見つかった沖縄県の“モリネ” 父には弟がいた可能性

■新たな調査で見つかった沖縄県の“モリネ” 父には弟がいた可能性

帰国後、私たちは「モリネ・カマタ」「沖縄」という手がかりからリサーチを開始した。すると、「盛根蒲太」という人物が戦前、沖縄からフィリピンに渡ったという記録が見つかった。職業欄には「漁業」と書かれていて、モリネさんの「父親は漁師だった」という証言とも一致。更に、「盛根蒲太」には弟がいて、同じ時期にフィリピンに渡っていたのだ。

盛根蒲太さんの弟に関する資料

その後、盛根蒲太さんの弟の孫が那覇市内に住んでいるとわかり、連絡をとることができた。

「祖父は確かにフィリピンに渡っていた。大伯父の蒲太については、フィリピンに渡ったあと戦死したという話を聞いている。リディアさんたちの映像を次の世代の親類にも見せてあげたい」

国籍回復に向けて、貴重な証言を得ることができた。

■戦後80年に向け新たな動き フィリピン、そして日本でも

放送から1年。日本政府も動き出した。

今年5月、離島で暮らすウエハラさん・モリネさんの元を、在フィリピン日本国大使館の花田貴裕総領事が訪れたのだ。

「今日まで訪問しなかったことを心からお詫びします」

謝罪の言葉を述べたうえで、一日も早い国籍回復に向けた最大限の支援を約束した。

フィリピンから来日した、無国籍の残留2世、アカヒジ・サムエルさん(手前)

さらに、長年国籍回復を果たせなかった残留2世の男性の来日が実現。

支援者が情報提供を呼びかけると、男性の父親に関する新たな情報や証拠が続々と寄せられたのだ。

多くの日本人にとって、忘却の彼方になりつつある79年前の戦争。歴史の片隅に取り残されてきたフィリピン残留日本人2世の問題が、ようやく動き出した。(続く)

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