地域防災を担う「防災士」は全国に28万人以上いる。平時は市民の啓発に取り組み、いざ災害が起きれば避難所運営や救援・支援活動のリーダー的存在となる。大阪府熊取町の粟飯原和宣(あいはらかずのり)さん(75)もその一人。防災士歴20年のベテランは「年齢を重ねたからこそ分かるものもある」と、高齢化の進む地域で精力的に活動を続けている。
防災士制度は1995年1月の阪神大震災を教訓に2003年から始まった。地域の防災力向上を担う民間の旗振り役養成が目的だ。粟飯原さんは04年に登録し、24年には防災士を育成・指導する日本防災士機構(東京都千代田区)から長年の活躍が評価され、功労賞を授与された。
粟飯原さんが防災士の道に進んだきっかけも阪神大震災だった。当時は熊取町消防本部(現在は泉州南消防組合に統合)の消防士。その朝、自宅でこれまで経験したことのない大きな横揺れを感じて跳び起きた。「消防車に乗り、サイレンを鳴らして神戸に向かった。担当は救急・救助。応援部隊としてドイツから来た人命救助犬と共に要救助者を探す任務につきました」
その後、同本部で消防長を務めるなど約40年間、消防業務に携わった。防災士の制度を知ったのは退職する少し前のこと。「最前線の現場で培った自分の経験や技術を還元できると思い、非常に良い制度だと感じた」と振り返る。
日本防災士会大阪府支部長などを歴任するかたわら、最大震度6弱を記録した18年6月の大阪北部地震や同9月の台風21号の風水害では、被災者への情報周知や破損した家庭用物置の解体などに奔走した。さらに今年4月、能登半島地震で甚大な被害を受けた石川県珠洲市にボランティアとして入り、倒壊したブロック塀の撤去作業などに力を尽くした。「街の古い家の1階部分がほとんど潰れていて、阪神大震災で見た神戸の光景とそのまま重なった」と印象を語る。
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古希を過ぎてなおエネルギッシュに活動する源は何なのか。
粟飯原さんは「少しでも地域の人の助けになるのであれば貢献したいという『消防魂』が体から抜けないんでしょう」と胸を張る。救急隊員時代、人の生きるか死ぬかの瀬戸際と常に向き合った。懸命の処置も実らず、残念ながら助からなかった人もいた。命の重さ、大切さを身近で目の当たりにしたからこそ、月1~2回登壇する地域の防災講演会では「まずは自分の命を最優先して」と強調している。「自分が助からなかったら、当然周囲の人も助けられない」と考えるからだ。
防災に関する研修会などに積極的に足を運び、学びも続ける。「火災や救急現場では瞬時の判断が求められる。それは自然災害でも同じ。そうした判断には知識の有無がやはり重要になる」。今も貪欲に知識や情報を集め、最近では認知症の人やその家族を手助けする「認知症サポーター」にもなった。
経験を重ね、ベテランとなったからこそ分かってきたこともあるという。熊取町は65歳以上の高齢化率が29・6%(23年9月末時点)で、今後も増える見込みだ。高齢者や要介護者など避難時に配慮が必要な人たちは、先んじて避難を始める必要がある。だが、年を取ると、体力的にも心理的にも速やかな避難行動がおっくうになりがちだ。
「『自分はまだまだ大丈夫』と思っていても、いざ危険が身に迫った時、若い頃と同じようには動けない。自分がその世代に近づいたからこそ分かるようになった」と語る。同時に「先が見えないと腰が重くなったり、見知った土地を離れたくなかったり。そういう気持ちも理解できる」という。だからこそ、少しでも話を聞いてもらうため、上から押しつけるのではなく、同じ目線で会話することを心がけているという。
災害が起きれば、避難所運営や要支援者の対応、行政機関との連絡調整といった業務が連日続き、体力が求められる。「週1回は町の近くの和泉葛城山(標高858メートル)に登っている。できれば『生涯現役』で頑張りたいね」と、日焼けした顔に笑みを浮かべた。
町内には四つの大学のキャンパスや研究所があり、若い学生が多く生活する。「能登半島地震でも学生たちが被災地に入るなど、若い世代の災害ボランティアへの関心は高い。若いパワーがこの町にはあるので、日ごろから連携を図って、いざという時に協力を得られるような形を目指したい」と情熱は尽きない。【露木陽介】
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