徳島駅前は、帆布張りの露店やバラックの店が並び、食べ物や雑貨品目当ての市民らでにぎわっていた。終戦後まもなく、焼け野原の徳島市に現れた「闇市」。空襲の心配が消えた市民には、別の「戦い」が待っていた。市民の記憶と資料から、当時の様子をたどりたい。
「並んだ露店の間を縫うように、学校から自宅へ急いだんですよ」
JR徳島駅近くに住む男性(87)は、終戦から1年後の1946年に見た駅前のにぎわいを振り返る。45年7月4日未明の「徳島大空襲」で、徳島市は市街地の62%が焼け、約900人が犠牲になった。特に徳島駅のある市中心部は駅舎はもちろん、わずかな鉄筋コンクリート建物を除き灰となった。男性も自宅を失い、県内の親族方に家族で身を寄せた。だが、翌46年には一家で徳島駅近くに戻り、再建した自宅で生活を始めた。
徳島大空襲で焼け残った数少ない鉄筋コンクリート建物の一つが、男性の母校である徳島市内町国民学校(現徳島市内町小学校)だ。男性によると、敷地の東側にあった「裏門」付近は徳島駅に近い「一等地」だった。裏門を出ると左右に露店が並び、下校時には、その露店や買い物客の間を縫わないと進めないほどのにぎわいだったという。
「建物疎開」跡へ
県の資料などによると、駅前やそこから南西に伸びる「新町橋通り」は家屋が密集する繁華街。道路幅は数メートルで、現在(幅50メートル)の1割以下だった。だが戦争中、駅前から市のシンボル「眉山(びざん)」のふもと付近までの沿道700~800メートルにあった家屋はたった3日間で取り壊された。空襲を受けた際の避難道路確保や延焼防止を目的としたいわゆる「建物疎開」だ。このため、終戦時には「駅前」でありながら、通りの脇に広い空き地が広がっており、店を開くには格好の場所だった。
徳島市史には、45年10月には「徳島駅前、元町、天神下通りや蔵本駅近辺などに、食べ物や日用品を提供する露店が出現」「ヤミ市が完全に撤去されたのは昭和二十七年(一九五二)であった」とある。
戦争中から、生活物資は家族の人数などに応じて割り当てられる配給制だった。だが、冷夏による凶作と敗戦で外地からの食料が減ったうえ、大陸や南洋から国内に引き揚げる国民が相次いで、食料を中心に多くの物資が極端に不足したとされる。
しかも、配給の遅れや欠配が相次ぎ、配給以外で食料を入手しないと生きていけない時代だ。東京地裁判事が闇市で売買される米を口にせず、栄養失調から病死したと報じられて社会に衝撃を与えたのは47年。それほど食料事情は深刻で、闇市でも食べ物を出す店が多かったようだ。
食べ物中心に162店
闇市で売買された「食べ物や日用品」とは何か。46年1月9~15日の徳島新聞(徳島市)の連載記事「闇市まん歩」で紹介されている。「(徳島)駅前の靴屋に始(ま)り、新町橋の饅頭(まんじゅう)屋に終(わ)る。その間屋臺(屋台)百二十六、小屋かけ三十六合(わ)せて百六十二の店があり、内訳は靴屋八、みかん十三、魚屋二十三、(中略)その他玩具、めがね、牛乳、表札等々」とある。記事によると、すしや肉うどん、肉団子に加え、1月という季節柄か、カキ汁や豆腐汁といった汁物も味わえたようだ。【植松晃一】
闇市
商品・サービスの価格や流通が統制されている中で、自由価格で提供する店が集まる市場。日本では敗戦で物資が極端に不足した1945年ごろ、空襲で焼け野原となった東京の秋葉原や渋谷、大阪の梅田や天王寺、神戸・元町など各地に出現した。四国では高松駅前のほか、高知市内にもあったとされる。政府は物価高騰を抑えるため、46年に公定価格(公価)以外での売買を禁止。公価を超える値段で売買された闇市は警察などの取り締まりの対象だった。
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