東京電力福島第1原発が立地する福島県大熊町の西部に製炭試験地の跡が残る。戦時色が色濃くなる時代に開設され、国を挙げたエネルギー政策として製炭技術の研究に取り組んだ施設だ。だが、原発事故に伴う帰還困難区域の中にあり、跡地は草木に埋もれていく。「地区と戦争の歴史を考えるうえで貴重な遺構だ」。その存在を知る人たちは保存の必要性を訴える。
「この山を引き続きお守りください」
照りつける夏の日差しが遮られ、うす暗く感じてしまうほどにうっそうと木々が生い茂った大熊町小塚地区。「山神」と彫られた石碑の前で、町文化財保護審議委員の高橋清さん(63)=現在はいわき市へ避難=は手を合わせた。傍らには、手のひらほどの大きさの石が積み重なった「捨石塚」もあり、これらはかつてこの地に存在した「小塚製炭試験地」で働く人々を見守っていたものだ。
農林省山林局(当時)により「小塚製炭試験地」が開設されたのは、太平洋戦争が始まる前年の1940年6月のこと。全国から指導者や研究生が集まって製炭技術の研究や改良が進められたが、国力に関わる「エネルギー」の研究には当時の機密事項も含まれていたとみられ、地元でもあまり知られていなかったという。
「島国の日本でエネルギーの問題が一番切羽詰まったのは、やはり戦争当時だったのかな」
高橋さんの祖父・市松さんは戦時中にこの試験地で働いた。「山神」の碑は試験地がある山の守り神。捨石塚は「炭焼きにまい進するために、自分の私欲や意思を石に込めて捨てた塚」だと聞いている。研究者のみならず、ここでは集められた兵隊たちも炭焼きに従事したのだという。
「戦争に出征する人もいれば、国に残って政策に身を費やす人たちもいた」と高橋さんは語る。そして、「木や炭を人類が手にした『第1の火』、原子力を『第3の火』と言うけれど、大熊は第1と第3の両方に関わっていたんだな」とも。
かつて大熊町の海沿いには旧日本軍の「磐城飛行場」が終戦まで存在し、特攻隊の養成が行われた。戦後に払い下げられ、跡地に建設されたのが福島第1原発だ。原発の敷地内には今も「磐城飛行場跡記念碑」が残されている。
福島第1原発がまたがって立地する大熊町と双葉町は、2011年3月の原発事故で甚大な被害に遭った。小塚製炭試験地があり、そのすぐ近くで高橋さんが長年暮らした家の周辺もいまだに帰還困難区域のままだ。
森の中にところどころ地面がくぼんでいる場所があるが、それは全て炭焼き窯の跡だという。周辺には運搬のためのトロッコ跡や「百俵窯」と呼ばれた巨大なコンクリート製炭焼き窯の遺構も残る。震災から13年という月日もあり、管理する人手もない中で、今は木々に埋もれ静かに朽ちるのを待っているように見える。
震災前、高橋さんたちはこの小塚製炭試験地を記録し後世に残すため保存活動に着手したところだった。しかし、その後の原発事故、そして避難……。「普通なら歴史はゆっくりとした時間の流れの中で伝承されていくが、大熊町では原発事故でガツンと全てがひっくり返された。このまま忘れ去られていっては、今まで携わってきた人たちに本当に申し訳ない」。高橋さんはそう話す。
同町で活動する住民団体「おおくまふるさと塾」の顧問を務める鎌田清衛さん(82)=須賀川市に避難=も、小塚製炭試験地の歴史を残そうと活動を続ける一人だ。黒炭チョークでこすって石碑を写し取る「フロッタージュ」で「捨石塚」などを記録し、地区の住民を訪ねては証言を自著にまとめた。
鎌田さんは力を込める。「小塚製炭試験地については地区にとってもかん口令が敷かれたような状況だったが、戦争から数十年がたちようやく全容が分かってきた。地区と戦争との関わりや当時の暮らしを考えるうえで重要な遺構であり、どうにかして残していくことができないか。軍部の圧力や見えない糸から解放されて『やっと語ることができるようになった』という意味でも平和のありがたさを伝えるものだ」【岩間理紀】
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