8月15日に終戦の日を迎えた。悲惨な戦争が終わった背景にあるのが原爆の投下だ。1945年8月6日に広島市、同9日に長崎市でたくさんの人が犠牲になった。79年がたったいま、惨禍を語り、核なき世界への願いを次代につなごうと、当事者やその子が被爆地から遠く離れた北海道で記憶を紡ぎ、語り継いでいる。
戦後生まれの弟に障がい
広島で被爆した母親から終戦後に生まれた弟は障がいがあった。21歳で亡くなる前に残した言葉は、「生きるって素晴らしいことだね」。いまも、忘れられない。「被爆者はもちろん、家族も一生、苛酷(かこく)な運命を背負うことになる」。三笠市の被爆者、中村政子さん(79)がゆっくりと半生を語り始めた。
中村さんは生後5カ月のとき、広島県で被爆した。当時の記憶はもちろんない。母親から悲惨な状況を聞いて育った。母親は被爆地の近くで助産師として働き、負傷者の治療にもあたった。運ばれてくる人たちは、皮膚がやけどでただれ、顔や背中にガラスの破片が刺さっている。次から次へと人が亡くなった。「生き地獄だった」とよく口にした。母親も被爆したことは間違いなかっただろうが、そのことを意識した様子はなかったと思う。
父親の炭鉱の仕事の関係で、3歳で三笠市に移住した。そして5歳のとき、弟の拓(ひろむ)さんが生まれた。拓さんは生まれつき左右両足の長さが違い、背骨も曲がっていた。成長するにつれて症状は悪化した。ついに、自力で歩くことも困難になった。
家族は障がいを持つ弟を特別視しなかった。けれど、周囲からは「うつるから来るな」「邪魔だから連れてくるな」と中傷を浴びせられたこともあった。弟が学校でいじめられて自宅に帰ってきたこともあった。
入院と自宅治療の繰り返しでほとんど寝たきりだった拓さんだったが、仮装して写真を撮ったり、おぶって札幌まで遊びに連れていったりした。「楽しい人生を送ってほしい」。できることは何でもしたかった。
自分を責め続けた母 核なき世界願う
不思議なことに、拓さんの病名は入退院を繰り返すごとに変わった。あるときは小児まひ、あるときは筋萎縮症。最終的に原因不明の「遺伝」という言葉で片付けられた。
拓さんが息を引き取ったのは21歳のとき。急性肺炎だった。拓さんが亡くなる数日前に病床からこぼした言葉が「生きるって素晴らしいことだね」だった。
被爆から35年以上がたった1981年、長崎で被爆した三笠市内の近所の人から聞き、初めて母親は被爆者手帳のことを知った。同時に、拓さんの障がいが自身の被爆によるものだったのでないかと、初めて知ることになったという。「もしも、もっと早く知っていたら、あんなに苦しくてつらい治療を受けさせなかったのに……」。その日、母は泣き崩れた。その後も自分自身を責め続けた。
中村さんは、自身と家族の人生を振り返りながら核兵器のない世界を夢見る。「核兵器は被爆者だけでなく、その家族にも苦しみを与え続ける。絶対にこの世界からなくさなければいけない。弟みたいな人生を送る人が、被爆2世、3世の未来の子どもたちに同じようなことが起きないことを願うばかりです」
拓さんが口にした言葉。もっと、いろいろなところに連れていってあげたかった、と思い出すたびに切なくなる。けれど「『ぼくは幸せだったよ』って家族へのメッセージだったんじゃないかな」と思うようにした。「原爆の犠牲者」が残した伝言として。【金将来】
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