岩手県宮古市の前川慧一(けいいち)さん(86)は、15年前から県沿岸部で太平洋戦争の体験記録集を手掛けてきた。戦後、朝鮮半島から引き揚げた前川さんが代表を務める市民団体は、終戦から79年のこの夏も刊行に向けて原稿を募集している。
前川さんが戦争体験記録集に取り組み始めたのは、釜石市に住んでいた2009年。有志で戦災資料館の開設を市に要望した際、「開館への機運を盛り上げよう」と企画した。代表だった市民団体で出版した。
製鉄所がある釜石は、米軍など連合国軍の攻撃目標とされた。1945年7月14日と8月9日の2回、海上から軍用艦による艦砲(かんぽう)射撃を受け、分かっているだけで782人が犠牲になった。終戦は2回目の砲撃から6日後の8月15日だった。
09年末に出した最初の記録集「私の八月十五日―終戦記念日に思う」第1集には、終戦時21歳だった女性の体験を掲載した。
「シューッ・ドカン(の音で)すぐ艦砲射撃と分かり、山に向かっておいと逃げた」「(砲撃の後)家の近くの畑に大きく深いすり鉢状の穴が開いていた。紙一重で助かったと感じた」。体験者の証言は、当時の緊迫感を克明に伝えた。
翌10年に第2集を発行した。艦砲射撃に加え、東京大空襲など釜石以外の戦災体験や旧満州(現中国東北部)、東南アジアでの従軍体験なども収めた。
その後も年1回発行を続けるつもりだったが、11年3月11日に東日本大震災が発生。前川さんの自宅は津波で全壊し、第3集に掲載予定だった原稿も流されてしまった。
当初の予定より1年遅れで12年8月に第3集を出版した。第5集までに計170人の体験を収めた。しかし、釜石で思った場所に自宅を再建できず、同じ沿岸部の宮古市に住んでいた長女の勧めで近くに転居。記録集も場所を移すことになった。
釜石での刊行を終えた15年末、転居後に縁を深めた10人と「宮古・下閉伊(しもへい)地域の戦争を記録する会」を結成し、代表に就いた。「戦争体験は宮古でも記録する意義がある」と賛同してくれたという。16年から毎年、太平洋戦争開戦日の12月8日、「戦争の時代を生きて」と題して出版。23年までに市内と周辺の121人分を掲載した。
前川さんが長く戦争体験記録集に携わっているのはなぜか。
釜石で生まれ、程なく父親の仕事の都合で日本領だった朝鮮半島に渡った。終戦時7歳。父親は軍隊に召集されていたが、自身は空襲や艦砲射撃などの戦災には遭わなかった。 しかし、近所で一緒に遊んでいた朝鮮人の幼女を棒でたたくなど「無意識のうちに(植民化していた)朝鮮の人を差別する感覚があった」。幼かった前川さんにも、戦時下の支配と被支配の関係が影を落としていた。
戦災の一端を知ったのは、家族と福岡市の博多港に引き揚げた後だ。岩手に向かう列車の窓から広島、神戸、大阪など焼け野原となった街が見えた。上野駅で戦災孤児とみられる女児に「何でもするから連れて行って」とせがまれたことを覚えている。
高校卒業後は釜石市職員として働き、加入した労組の運動を通じて平和の大切さを知った。退職後は釜石市の戦災資料館建設に関わり、その中で体験記録集を思い立った。
86歳となった今も前川さんを突き動かすのは「多くの人は戦争を分かっていない」との思いだ。
「もろ手を挙げて戦争に賛成する人はいないと思うが、(その実相を)具体的に知らないと、平和の大切さは理解できない」と訴える。何が起き、どれほどの被害があり、当事者がどう感じたか。自身も経験したことがない艦砲射撃や軍隊生活、戦場の実情などを体験者から聞いたり、記録を読んだりして理解を深めてきた。
釜石、宮古と続けてきた戦争体験記録集は、戦後80年の25年を区切りとするつもりでいる。前川さんは「難しいとは思うが、活動を引き継いでくれる人がいれば」とつぶやいた。【奥田伸一】
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