15日、終戦から79年を迎えた。政府主催の全国戦没者追悼式が東京都千代田区の日本武道館で開かれ、正午の時報を合図に参列者が日中戦争と太平洋戦争の犠牲者に黙とうをささげる。
戦時中に発行された青年向け雑誌には徴兵検査に関する読者からの投稿が多く見られる。
徴兵検査は1927年に制定された兵役法に基づき兵役義務のある満20歳の男性に対して行われた。終戦前年の44年からは満19歳にも対象が広げられた。
東海大の山本和重教授(軍隊社会史)によると、検査によって「甲乙丙丁戊」にランク付けされ、甲・乙種が補充兵要員を含め「現役に適する者」とされた。ほぼ1日かけて、身長・体重といった体格から視力・聴力、言語能力や精神状態まで検査の対象とされた。
37年の日中戦争開戦以前は「身長1・55メートル以上の身体強健な者」が甲・乙種で、かつ視力が左右とも0・6以上ならおおよそ甲種合格となった。甲・乙種以外は事実上の兵役免除だった。
しかし、それまで丙種に振り分けられていた特定の持病が40年から乙種になるなど検査の判定基準は戦争の激化とともに緩くなっていった。
毎日新聞が戦時中に発行した戦意高揚のための雑誌「大日本青年」には、検査の合格を喜んだり不合格を嘆いたりする投稿として、次のようなものがある。
「私はめでたく甲種合格になりましたと心から喜んでをります」と岡山県の青年が喜ぶものや、「兄の仇討てるうれしさ甲種かな」という兵庫県の青年の俳句が載った。
一方で、「残念ながら丙種合格でした。友人の多くは甲種に、乙種に合格し、近づく入営の日を待つているのに(中略)決定の当時私は非常に悲観いたしました」という嘆きを寄せる青年もいた。
京都女子大の市川ひろみ教授(平和研究)は「甲種合格だったら一人前で立派な国民という意識が若者たちの間で共有されていた。不合格だったら白い目で見られ一人前扱いされないという話もあった」と当時の状況を説明する。
現在、ロシアに侵攻されているウクライナでは徴兵逃れが相次いでいる。約80年前の日本でも戦争に行くことを嫌がったり戦争に反対したりした若者もいた。
徴兵を逃れるために銃剣が使えないように人さし指を切り落としたり、しょうゆを大量に飲んで心疾患を偽装したりする事例があったという。
市川教授は「人を殺したくない、殺されたくないという人や、家族を養うために出征することはできないと考えた人もいた。国家に身をささげることを求められる中でも、そこから距離を置く人もいた」と話している。【田中綾乃】
鄭重声明:本文の著作権は原作者に帰属します。記事の転載は情報の伝達のみを目的としており、投資の助言を構成するものではありません。もし侵害行為があれば、すぐにご連絡ください。修正または削除いたします。ありがとうございます。