太平洋戦争中、兵庫県姫路市広畑区にあった捕虜収容所にいた米兵が持ち帰った水筒が、市平和資料館(同市西延末)に寄贈された。水筒には「八幡」などと書かれ、所持していた日本兵の名前とみられる。同館は今秋にも、この水筒とともに姫路の捕虜収容所に関する企画展を開催する予定だ。
寄贈したのは米オレゴン州在住のチャック・アゴスティネリさん(71)。米陸軍兵だった父チャールズさん(1993年に75歳で死去)が保管していた。水筒の布カバーに「ヤハタ」、肩ひもに「八幡」と書かれ、本体にもくぎのようなもので「八幡」と刻まれている。
チャックさんは持ち主の家族に返還したいと2020年、厚生労働省に照会。翌年、戦時遺留品の返還・寄贈に取り組む米イリノイ州のNPO法人「キセキ遺留品返還プロジェクト」にも調査を依頼したが、持ち主に関する情報は得られず、24年3月、同館に託した。
同プロジェクトによると、チャールズさんは1942年にフィリピン・コレヒドール島で捕虜となり、翌年、姫路市広畑区の大阪俘虜(ふりょ)収容所広畑分所に移された。終戦約1カ月後の45年9月に解放され、同年10月に帰国した。チャールズさんは生前、家族らに戦争のことはほとんど語らず、水筒を受け取った場所や持ち帰った理由は不明という。
チャックさんは「もしかしたら持ち主の家族が目にしてくれるかも」と水筒の公開に期待を寄せているという。同プロジェクト代表のジャガード・千津子さんは「小さな水筒一つだが、戦争にはいろんな局面があることを物語っている。3年以上も日本の捕虜として過ごした米兵がいたことに思いをはせてほしい」と話している。
研究者らで作る「POW(戦時捕虜)研究会」の調査によると、大阪俘虜収容所広畑分所は42年、「広畑分遣所」として飾磨郡広畑町才(当時)に開設され、43年、同町小坂(同)に移転。終戦時には約300人の米兵が収容されていた。
企画展を担当する同館職員の田中美智子さんは「79年の時を経て帰還した水筒からさまざまな背景が見えてくる。太平洋戦争中、姫路に捕虜がいたことはあまり知られていないが、これを機に関心をもってもらえれば」と話している。【村元展也】
鄭重声明:本文の著作権は原作者に帰属します。記事の転載は情報の伝達のみを目的としており、投資の助言を構成するものではありません。もし侵害行為があれば、すぐにご連絡ください。修正または削除いたします。ありがとうございます。