日航機の墜落事故から12日で39年です。何年経っても愛する息子を失った傷が癒えないなか、命の大切さを伝え続ける母親の姿がありました。
美谷島邦子さん(77)
「来たよ。汚れちゃっているね。まずお掃除からだな」
優しい口調で亡き息子に話しかけるのは、美谷島邦子さん。
1985年8月12日、美谷島さんの息子・健さんらを乗せた日本航空123便が、群馬県上野村にある御巣鷹の尾根に墜落しました。
乗員乗客520人が死亡し、多くの人が愛する家族との別れを強いられました。
9歳の健さんにとって、初めての1人旅でした。
美谷島さん
「(羽田まで送りに行き)家に帰ったら123便の機影が消えたって。玄関を飛び出して『健ちゃん健ちゃん』って叫びながら」
すぐに現地へ向かった美谷島さん。
なかなか健さんと会えないまま迎えた6日目、やっと対面できたのはわずかな胴体と右手だけでした。
美谷島さん
「これは絶対健ちゃんの手というのは、小さなイボがあって、爪をかむような癖もあったので…」
美谷島さんはその手を握りしめ何度も何度も謝ったそうです。
美谷島さん
「なんで飛行機に乗せちゃった、1人で。しかもね、9歳の子って。もう自分に対する後悔、それしかなかった。ごめんねって」
事故から39年。今でも、写真や遺品を見る時には覚悟がいるといいます。
美谷島さん
「9歳だった健が赤ちゃんの時から戻るので、その時間がやっぱりつらい。だから(遺品を)出せないの。本当はこんなにこんなに大切な子だから、もう一回振り返ればいいけど」
「私も遺族の仲間がいることで生きなければと思った。予期せぬ出来事で大切な人を突然亡くした時、気持ちの整理をするのは簡単ではない。事故を繰り返させないことが残された者のせめてものできることと必死だった」
何年経っても癒えない悲しみ。
それでも、生きなくてはと思えたのは、同じく大切な人を亡くした人たちの存在だったと美谷島さんは話します。
事故からおよそ4カ月後、遺族同士で悲しみ、怒り、悔しさを共感し、強い絆で支え合おうと「8・12連絡会」が立ち上がり、事務局長を務める美谷島さんを先頭に世界の空の安全を訴えてきました。
美谷島さん
「命につながることが心に残ってもらえれば一番いいし、命というだけではなく、自分がいま抱えていること、ひとつでも何か力になるようなことになったらいいなと願っている」
二度と自分たちのような被害者を出さないよう、いのちの授業を通じ、事故のことを「忘れてはいけない、忘れさせてもいけない」。次の世代を担う人たち、主に子どもたちに伝えていきたいということです。
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