長崎市幸町の複合施設建設地で、長崎原爆投下時に爆心地の南約1・7キロにあって全壊した捕虜収容所の基礎の遺構が2022年に見つかっていたことが市などへの取材で判明した。市は「原爆被害を伝える遺跡とは認められず、保存対象ではない」と判断し、遺構は保存されなかった。病死や被爆死した捕虜も多く、市民による慰霊行事などが催されているが、市は遺構発見を公表しなかった。捕虜の遺族らと交流する市民団体は「市民や遺族を巻き込んで保存・活用を議論すべきだった」と市の判断に疑問を投げかけている。
収容所は、福岡俘虜(ふりょ)収容所第14分所。長崎市が発行した「長崎原爆被爆50年史」などによると、第二次世界大戦中の1943年に開設され、南方の戦線から移送された旧連合国のオランダ人やオーストラリア人らの捕虜約540人が収容された。原爆投下前に病気などで約100人が死亡し、原爆でオランダ人8人が犠牲になったとされる。7棟あった建物はほぼ全壊、全焼した。
第14分所の跡地一帯は戦後、三菱重工業長崎造船所幸町工場などの敷地となった。2018年に通販大手の「ジャパネットホールディングス(HD)」(長崎県佐世保市)が三菱重工から取得。約7・5ヘクタールの敷地に、サッカースタジアムやアリーナ、ホテル、商業施設などを備えた複合施設「長崎スタジアムシティ」を建設中で、今年10月に開業を予定している。長崎市は工事の開始前にジャパネットHD側に、建設予定地にはかつて第14分所があったことを伝えた。
遺跡保存に取り組む長崎市の市民団体「養生所を考える会」によると、メンバーが22年3月下旬に建設用地を外側から見たところ、れんがなどが確認できたため、すぐに市に調査と保存・活用を要請した。
市によると、同時期に工事業者からも連絡があり、22年4月8日に現地を確認。建設用地の南東部で、地表から約80センチ下にコンクリート製の路盤があり、その下にれんが積みの基礎とみられる部分が少なくとも長さ十数メートル、幅2~3メートルにわたって見つかった。高さ110センチのれんが積みの構造体が残っている部分もあった。見つかった場所などから、市は第14分所跡だと確認した。
原爆による被害を受けた建造物(被爆建造物)についての市の取り扱い基準では、爆心地から約4キロ以内に現存する被爆建造物と、2キロ以内で既に滅失した大規模な被爆建造物を調査対象とする。調査の結果、原爆の痕跡があるものや、当時の社会的状況を示唆するものは保存する。
第14分所について、市は96年の調査報告書で「滅失した被爆建造物」と位置付けた。市によると、基礎の遺構を確認したのは今回が初めてだが、残存状況が局所的▽遺構やれんがに、すすの付着や強い衝撃でできるひび割れといった被爆の痕跡が確認できない――などの理由から「原爆被害を伝える遺跡とは認められない」と判断。ジャパネットHD側にもそう伝え、遺構は保存されずに工事が進められた。既に敷地内の通路として整備されている。
市は現地確認した結果などを「養生所を考える会」には伝えたが、報道機関などには公表しなかった。市の担当者は取材に「原爆被害の痕跡がなかったので公表の必要性がないと判断した」と答えた。
市民団体「在外被爆者支援連絡会」(同市)の共同代表で被爆2世の平野伸人さん(77)は、第14分所で被爆した元捕虜が被爆者健康手帳を取得するのを支援し、犠牲者の追悼碑建立や慰霊行事などにも取り組んできた。発見された第14分所跡について「爆心地に近く、日本人だけでなく外国人捕虜が原爆の犠牲になったことを物語る『第一級の被爆遺構』で、保存すべきだった」と指摘し、「市は保存運動が盛り上がって施設建設に影響することを警戒し、公表しなかったのではないか」といぶかる。
戦争捕虜の調査研究をしている市民団体「POW研究会」の笹本妙子共同代表(76)は「捕虜として苦しんだ経験を家族から聞き、日本を訪れる子や孫たちも多く、跡地が保存されていたり、追悼碑が建立されたりしていることで心が癒やされる。第14分所の遺構が残っていれば心のよりどころになったはずで、残念でならない」と語った。
ジャパネットHD広報室は取材に「残存状況が限定的なため、行政基準上、保存の対象とならないことを長崎市に確認した。埋設物は再利用および廃棄物として適切に処理した」と答えた。【樋口岳大、尾形有菜】
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