1895(明治28)年、台湾は日本の統治下に置かれたが、1945(昭和20)年、太平洋戦争に日本が敗れたことで支配は終わり、在留日本人の引き揚げが始まった。引き揚げた人々は混乱期をどのように生きてきたのか。そして、現代社会をどう見ているのか。現在、台湾で生まれ育った経験を語る活動をしている上野正和さん(91)=大阪府在住=に話を聞いた。【早稲田大院・浜田澪水(キャンパる編集部)】
運良く生き延びた台北大空襲
上野さんは33(昭和8)年、台北州新荘郡新荘街で生まれた。父は警察官だった。記憶にあるのは父が商事会社に転職した後、5歳で過ごした中西部の都市・嘉義での出来事だ。「嘉義農林学校の野球部の練習風景を見に行ったり、嘉義神社の秋祭りでみこしを担いだりした」ことが思い出に残っている。
当時、日本の統治下にあった台湾には上野家と同じく多くの日本人が移り住んでいた。その後、居を移した台北市では、近所の台湾人の家屋前にあった池で水遊びをして、危うく溺れそうになり、助けてもらったこともあった。
そんな上野さんの記憶に強く残っているのが、45年5月31日の台北大空襲だ。100機を超す米軍の爆撃機による波状攻撃で、3800発の爆弾が街中に投下された。近くの樺山小学校にも500キロ爆弾が7発着弾した。上野さんは防空壕(ごう)に避難して難を逃れたが、当時市内では、この空襲で3000人を超す死者が出たとされる。上野さんは「こんなに爆弾が落ちているのに助かったのは、運が良かったからだろう」と振り返る。
敗戦で激変した暮らし
それから2カ月半後に日本は敗戦。台湾は当時の中国国民党政権が接収し、暮らしは様変わりしていく。降伏調印後の同年10月ごろには失業者が増え、物価が高騰した。ラジオ放送は日本語から中国語へ変わり、新聞記事も最後の1ページだけは日本語で、それ以外のページは全て中国語で書かれるようになった。学校でも中国語教育が始まった。
国民党政権は、技術者などを除く大半の日本人に引き揚げを命じた。上野さん家族は46(昭和21)年4月、和歌山県の田辺港に船で帰還した。引き揚げに際し持ち出すことが認められたのは1人当たり、日用品や衣類、炊事道具などを詰め込んだ行李(こうり)1個と布団袋、そして現金1000円だけ。「仕事がない、家もないところから始まった生活には苦労が多かった」と上野さん。一家は父の兄の家にしばらく間借りしたが、その後、祖父が持つ鳥小屋を改造し、父の弟家族と同居する生活が始まった。
台湾を含むアジア各地の植民地は当時「外地」と総称された。上野さんの印象に強く残っているのは、やっとの思いで帰還を果たした外地からの引き揚げ者に対する、社会の視線の冷たさだった。父は地場産業の産品だった靴下を売って生計を立てたが、闇物資と見なされ没収されることが多かった。上野さん自身も学校などで、よそ者扱いされることがあったという。
上野さんは生活や勉学に支障を感じつつも、親戚に教育関係者が多かった影響もあって教師を志すようになった。大阪学芸大学(現・大阪教育大学)を卒業後、定年まで大阪府の小・中学校で教壇に立った。
日本の歴史教育に違和感
台湾で生まれた日本人は「湾生(わんせい)」と呼ばれる。上野さんは台湾で暮らした思い出を大事にしており、小学校時代の台湾人の友人とは今でもLINEで連絡を取り合う仲だ。
一方で、湾生としての経験や暮らしから、また教育者としての経験から、現代の日本の歴史教育には違和感があると上野さんは言う。「教育現場では8月15日が終戦記念日とされ、天皇の玉音放送が戦争の終結ととらえられているが、日本の植民地だった満州、樺太、千島列島ではソ連軍の侵攻が始まり、悲劇が続いていた。そのことが教えられていない」。そんな思いから、湾生として引き揚げ問題を語り継ぐ語り部活動を続けている。
戦争で敗れて以来、日本は平和を享受している。しかしその平和がいつまでも続く保証はない。上野さんは、戦争を体験していない世代に向けて、こう語りかける。「国として戦争にならないように努力することは大事だが、もし戦争になってしまったらどうするのか。戦争についてしっかり考えさせる教育をしないといけない」
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