8月6日に広島、9日に長崎、悲劇を呼んだ原子爆弾。

実は、原爆が投下される数週間前から、日本の各地で、実験として巨大な爆弾が落とされました。
その数、49発。各地で大きな被害をもたらしました。いわゆる“模擬原爆”、その知られざる実態に迫ります。

7月26日、大阪で行われた鎮魂の祈り。アメリカ軍に狙われるような工場もない場所で、悲劇は起きました。

龍野繁子さん(99)は、当時のことをいまも鮮明に覚えています。

龍野繁子さん
「扉ひとつ隔てた隣の部屋へ爆弾が落ちた。予想もしていないし、この辺に工場もないし、空襲なんてあるはずないなんて大それたことを言っていたので、あの音にはびっくりした。いまだに耳の底へよみがえってくる」

7人の命が奪われ、73人が重軽傷を負った東住吉区。その爆弾は、戦後、異様な大きさだったことがわかりました。実寸大の模型が、大津市歴史博物館の倉庫に保管されていました。長さは3.25メートル、重さ4.5トン。

大阪に投下された爆弾は、長崎に落とされた原爆と同じ形。かぼちゃのような見た目から“パンプキン”と呼ばれましたが、中身は核ではなく爆薬。原爆とそっくりに作られた模擬原爆だったのです。

龍野繁子さん
「何よそれ、ばかにされてたんやなって。もちろん戦争だから、相手をばかにしないと、やっつけにいけない。戦争というものの惨さ」

なぜ、模擬原爆を作ったのか。

太平洋戦争末期、日本への本土攻撃を強めたアメリカ。人類史上初めて、原子爆弾の開発を成功させましたが、同時に新たな課題も生まれていました。

それは、この規格外の大きさを持つ爆弾を正確に投下できるのかということです。

『トップシークレット』と書かれたアメリカの資料に記されていたのは、“原爆の父”オッペンハイマー博士らが行った会議で述べられた模擬原爆の重要性でした。

「原爆投下作戦を成功させるためには、作戦全体のリハーサルを完璧に行うことが不可欠である」

アメリカの砂漠地帯で行われた模擬原爆の投下練習とみられる映像。目標は、円の中心部分ですが、大きく外れます。

原爆は、その大きさと丸みを帯びた形状のため、落下の軌道が安定しないという問題を抱えていました。そこで着弾精度をあげるために行われたのが、日本での投下訓練でした。投下を担当した機体には、着弾精度の確認のため、航空写真の撮影が義務付けられていました。

落とされた模擬原爆は、全国で49発。犠牲者は約400人。ただ原爆投下の練習のために、これほど多くの人が亡くなっていたのです。

その一つ、神戸・摩耶山。この山中で着弾地点の調査を続けているのが、神戸大学・大学院生の西岡孔貴さん(26)です。

西岡孔貴さん
「去年の11月から12月にかけて、3回ほど山に入って調査をした。結構、傾斜が厳しいところで、採掘をした」

地中10センチの深さから、模擬原爆の一部とみられる金属片が出てきました。厚さは1センチ程度、模擬原爆とほぼ同じだといいます。今後は、別の場所に落とされた模擬原爆の破片と成分を比較し、確認する予定です。

西岡孔貴さん
「投下されたのは当時の話ではあるが、逆に年月が経ったことで、明らかになってくることもある」

日本全土を巻き込んだ大規模な作戦。しかし、戦後長らくこの事実が明らかになることはありませんでした。

愛知で社会科教師をしていた金子力さん(73)。米軍資料に残されていた模擬原爆に関する作戦資料を探り、日本で初めて“模擬原爆”の存在を明らかにした人物です。

調査を進めるうちに、模擬原爆に隠されたアメリカの“意図”が見えてきたといいます。

金子力さん
「このパンプキン(模擬原爆)というのは(形が)原爆を類推させる。その形状が(日本に)残ってしまうということを防ぐ」

金子さんが注目したのは、弾頭部分。模擬原爆の証拠が残らないよう、着弾の衝撃で爆発する接触信管が3つ。確実に不発弾が残らない設計になっていました。

金子力さん
「核兵器を、唯一、アメリカが実際に使った。それが他の国、特に当時のソ連を意識している。まねをされたり、情報が漏れていくことを非常に警戒していた」

すべては原爆を成功させるため。模擬原爆がもたらした被害も、また、核が生み出した被害だと語ります。

金子力さん
「現在の核をめぐる対立から、核を戦争に使う、そういう戦略の実践のスタートがパンプキン(模擬原爆)から始まっている。ただの通常火薬の入った爆弾とはいえ、一つの核戦略のスタートでもあったと思っている」

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