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午前8時15分。
79年前のきょう、広島に原爆が投下された。
その犠牲者となった人々への慰霊と世界恒久平和を祈念するため、
1分間の黙とうが、ささげられた。

大下容子
「非常に立派な建物だなということを改めて感じます」

先月20日、大下容子アナウンサーが訪れたのは、広島市内にある被爆建造物、
「旧広島陸軍被服支廠(ひふくししょう)」だ。

ここは、1914年(大正3年)、陸軍兵士の軍服などの製造・貯蔵を担う施設
として建てられた。
鉄筋コンクリートやれんがなどで頑丈に造られていたため、原爆の爆風にも
耐えた建物だ。

大下容子
「あちらの方向が、原爆ドーム、爆心地です。
この被服支廠は2.7キロ離れているんですが、爆風でこのように非常に
頑丈に作られた鉄の扉…鉄扉がもう曲がってゆがんでしまっているのが
わかります」

生々しい傷跡が、今も原爆のすさまじさを物語っている。

大下容子
「原田さんでいらっしゃいますか、どうも初めまして。テレビ朝日の大下と申します。」

元原爆資料館・館長の原田浩(はらだ・ひろし)さん85歳。
原田さんは、6歳のときに被爆。
長年にわたり、被爆の実態を次の世代に伝える取り組みを続け、
被服支廠の存続にも尽力した人物だ。

1945年8月6日午前8時15分。広島に原爆が投下された。
この投下により、爆心地から2キロ以内の建物のほとんどが破壊され、
およそ14万人の命が奪われた。

爆心地から約2.7キロにありながら、原爆にも耐えた最大規模の被爆建造物。
現在、一般公開はされていないが、今回、建物の内部へ入ることが許可された。

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■今も広島に残る“被爆建造物” その内部へ…

■今も広島に残る“被爆建造物” その内部へ…

大下容子
「私この被服支廠の中に入るのは初めてなんですけれども、こういう風に
なっているんですね」 元原爆資料館・館長 原田浩さん
「4棟残りましたので非常に良かったと思います。重要文化財に決まったりしました」 大下容子
「原爆のあの8月6日のときは急きょ臨時の救護所になって、
ここにたくさんの負傷者が運び込まれて…」

原爆投下直後は、臨時の救護所として多くの被爆者を受け入れた施設…。
戦後は、企業の倉庫や学校の教室などとして使われてきたが、
耐震に問題があるとして、解体が検討された。
原田さんは、「この施設は残すべき」と、解体に異を唱え、反対運動を
起こしたのだ。

原田さんが施設の存続にこだわった理由…。
それは、6歳の時の被爆体験にあるという。

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■「皆さんの体の上をあえて私たちは踏んで逃げた…」

■「皆さんの体の上をあえて私たちは踏んで逃げた…」

元原爆資料館・館長 原田浩さん
「私は広島駅で被爆をすることになりました。いきなり目の前が真っ白になるというか、閃光が走ってそれと同時に父がとっさに無理やり私の手を引っ張って、自分のおなかの中に腹ばいになって入れてくれました。
そうしたことによって、私は奇跡的にあまりけがをせず助かった」
「ふと我に返って、がれきをかき分けながら、はい出してきた時は周りの風景はほとんど何もありませんでした」 大下容子
「広島駅でもすごい光景を目の当たりにされたわけですよね」 原田浩さん
「まあ『よく助かったな』と周りの人から言われましたね」

6歳の時の被爆体験。
広島駅周辺は、一変したという。

原田浩さん
「逃げようとしたんですが、当時の道は狭かったし、家屋は全部倒れてしまったんで足の踏み場がなかったんですね。
たくさんの市民の皆さんの体があったわけですが、その市民の皆さんの体の上をあえて私たちは踏んで逃げた…非常につらい思いです。
だからそういう方々の無念さも、当然に私どもは多くの方に伝える必要があるんじゃないかと思います」

被爆の実態や亡くなった人の無念さを伝えることが、残された自分の使命だと
語る原田さん。
被服支廠の存続にこだわったのも、そういった思いからだった。

原田浩さん
「臨時の救護所と言いましても、普通の格好で普通の人間が亡くなるような格好ではありませんので、体がぼろぼろになったり、皮膚が溶けて流れたり、どうしようもない状態の人をいっぱい収容したもんですから」

原田さんは、講演活動などで重要性を訴えると共に、県や国に要望書を提出し、保存活動を行ってきた。
結果、今年1月、国の重要文化財に指定されることが決まり、4棟とも保存されることになった。

多くの人が原爆により死傷した“被害” そして、軍服などを作ってきた“加害”
戦争の両面を伝えることが、世界平和へとつながるとのではないかと
考えているのだ。

原田浩さん
「私どもがメッセージを発信するというのは残された被爆者の使命であるし、広島の市民、県民の思いだ。そういうふうな結集をしながら、今まで以上に情報を発信していく必要があるんじゃないかと思います」

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■重要文化財の指定までには紆余曲折が…

■重要文化財の指定までには紆余曲折が…

久保田直子
今年1月に国の重要文化財となった旧広島陸軍被服支廠(ひふくししょう)ですが、指定までには紆余曲折がありました。 ▼被服支廠は被爆の痕跡を今に伝える
国内最大規模の被爆建造物です。
▼構造は鉄筋コンクリート造とレンガ造りが複合する国内でも希少な建築物で500mに及ぶ歴史的景観となっています。
▼現存する4棟のうち、3棟を広島県が所有し、1棟は国が管理しています。

▼被服支廠は、1914年に建てられました。陸軍兵士の軍服・軍靴(ぐんか)などの製造・貯蔵を担う施設でした。
▼1945年の原爆投下直後は被爆者の臨時救護所とされ、戦後は、学校の教室や、企業の倉庫としてわれてきました。
▼2019年 耐震化工事費用などの問題から、広島県から「1棟保存・2棟解体」の方針が示されましたが、多くの被爆者や住民が、保存を求める声を上げた結果、
▼今年1月19日、 4棟すべてが国の重要文化財に指定され、保存されることが決定しました。 ▼今後、被服支廠はどう活用されていくのでしょうか。
先月12日、広島県 原爆被害者団体協議会などの被爆者7団体は、県や国、広島市に対して、被爆者団体などの資料を保存する拠点とするよう要望しました。
▼また、原爆資料館の収容力が限界に来ているとも指摘しています。 ▼元原爆資料館の館長の原田浩さん(85)は「被服支廠は被害にあったと同時に、加害の歴史の中にある。どういう格好で被服支廠を活かしていくのか。」
「特に平和活動に関する資料を収集、保存、活用する拠点として、被服支廠は大きな選択肢となる」と言及しています。

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■減少する被爆建造物 経年劣化や耐震問題で取り壊しの危機に

■減少する被爆建造物 経年劣化や耐震問題で取り壊しの危機に

久保田直子
原爆投下から、79年。被服支廠のような建物は、経年劣化や耐震問題などで、取り壊しの危機に直面しています。 ▼現在、爆心地から半径5km以内にある被爆建造物は、1996年には、100件ありましたが、現在は、86件に減少しています。
▼こうした、被爆建造物を守ろうと、様々な方法で、修復や保存が行われています。 ▼本川国民学校の鉄筋コンクリート造の校舎は原爆によって外形だけを残して完全に焼失しました。現在は外形はそのままに、内装を改装し、校舎の一部が平和資料館として使用されています。 ▼帝国銀行広島支店は強烈な爆風のため大きく壊れましたが、戦後に修復。その後、耐震性などの問題で、建て直されますが被爆した壁の一部を保存しながら建て直され、現在、ベーカリーとして営業しています。

被爆建造物の保存について、元原爆資料館館長の原田浩さんによると「どう活用するか」が重要だといいます。

元原爆資料館・館長 原田浩さん
「建物を補修して“何に使うのか”という目的をはっきりさせ、建物の価値をしっかりと認めてもらうことから、議論を始めている。」
「メッセージを発信するのは残された被爆者の使命。今まで以上に情報を発信していく必要がある。」 ・“渋谷で核攻撃”疑似体験 被爆者の孫が企画に込めた思いとは? 原爆投下から79年へ・100年以上“猛暑日知らずの街”今年も「エアコンは使っていない」移住の相談は約2倍 さらに、夏でもサウナが味わえる“涼しい街”も・日本人に初「むち打ち刑」20回 強姦罪で判決 シンガポール…禁錮17年6カ月に加え・「川に白い水が流れている」で発覚 38年間トイレなどの汚水垂れ流し・“30秒で出来る”熱中症対策の新常識! 家で簡単に「アイススラリー」の作り方

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