6日の平和記念式典に参列するため訪れた広島市で前日、初めて知ったのは、多くを語らなかった亡き父が被爆体験記を書き残していたという驚きの事実だった。そこには身内も詳しくは聞かされていなかった79年前の記憶が記されていた。「後世に伝えたかったんだろう」。思わぬ形で手記を目にした肉親らは原爆投下から79年の日の式典に参列し、父へ思いをはせた。
手記は祈念館に
「お父様の名前で書かれた手記が残っているのですが、確認していただいてよろしいでしょうか」
香川県三豊市の岡田洋子さん(74)は5日、平和記念公園(広島市中区)内にある国立広島原爆死没者追悼平和祈念館で、本に集録された手記を職員から示された。この日は、広島で被爆した父・松岡守さん(2017年に91歳で死去)の名前と顔写真を祈念館に登録するため、2人のきょうだいとともに赴いていた。
2ページにわたる手記には、「松岡守」という本名とともに、20歳で被爆したことや、国鉄(当時)の機関士だったことなど、父の来歴と合致する事実が直筆で書かれていた。きちょうめんな文字にも見覚えがあり、「お父さんの字で間違いないね」ときょうだいで確かめ合った。岡田さんは胸が熱くなり、こぼれる涙を拭った。
多くは語らなかった父
岡田さんが、父が被爆者だと知ったのは1980年代前半。当時小学校で原爆被害を学習していた長女の近況を何気なく話したところ、父が入市被爆の体験を初めて打ち明けた。
「一瞬で大勢の人が亡くなった。広島にいたから知っている」「やけどをした人が辺りに転がっていた。地獄だった」。淡々としていたが、多くは語らなかった。三豊市で生まれ育った岡田さんは、一家が広島原爆に接点があるとは思ってもいなかっただけに衝撃を受けた。
守さんは最晩年の85歳ごろから、三豊市内の小学校で被爆体験を証言するようになった。しかし、岡田さんらきょうだいは「父に体験を聞いたら父も私たちもつらくなる」と思い、詳しくは聞けなかったという。遺品からも手記の類いは見当たらず、残していないとばかり思い込んでいた。
記された「生き地獄」の光景
守さんは手記の中で、当時山口県岩国市に赴任し、原爆投下3日後の45年8月9日に広島入りしたと記している。貨物列車に乗務し、広島駅近くの太田川に架かる鉄橋に差し掛かった時の光景について、「川の中を見てビックリしました。水を求めて川の中に入った人達が水の中で死亡し死体が無数に見られた」と振り返る。
広島駅前は「何一つ残らないガレキの山ばかり。道端には焼死体がいくつか見られた」とし、「あのような生き地獄が二度と起らないように」と犠牲者を悼んでいる。文中には「あれから50年」との記載があり、戦後50年の95年ごろに書かれたらしい。
6日の平和記念式典に参列した岡田さんの弟の松岡正司さん(72)は「記憶を形に残そうとしたんじゃないか」と話す。岡田さんは「初めて知ったことも多かった。つらい体験をした父の思いが手記を通じて子どもたちにも届いてほしい」と願った。【川原聖史】
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