「黙っていたら平和は来ません。政治への無知と無関心こそ、平和への敵と言えるでしょう」。原爆ドームの近くにある「原爆犠牲ヒロシマの碑」(中区)で5日に碑前祭があった。被爆者の松本滋恵(ますえ)さん(82)が、原爆詩人の栗原貞子の言葉を引用しながら、3歳で被爆したことなどを語り、平和を求めて学び続ける大切さを訴えた。
1945年8月6日、広島市内の自宅で母や弟らと朝食をとっていると、だいだい色の火の玉が近くに落ちてきたのが見えた。爆心地から約3キロだった自宅には、閃光(せんこう)と共に爆風が押し寄せ、天井や壁が落ちて、窓ガラスで足の踏み場もなくなった。家族にけがはなかったが、爆心地から約500メートルの場所に住んでいた祖父と伯父夫婦らが亡くなった。
当時は3歳。記憶はまばらだが、髪の毛が逆さに立った真っ黒な死体を見たことや、多くの死体が蒸し焼きのように焼かれる光景は脳裏に刻まれている。
24歳で結婚し、3人の子を授かった。夫が交通事故で亡くなってからは、市内の小学校で給食調理員をしながら家計を支えた。
59歳で大学へ、原爆詩人を研究
定年退職を前に一念発起して59歳で大学に入学。「生かされた者として、原爆の惨状を知り、伝えなければいけない」との思いから、大学院に進学して原爆文学を学んだ。被爆直後に生まれた原爆詩人の栗原貞子について研究し、77歳で博士号を取得した。
2年前の夏、亡くなった弟の自宅を整理していると、約80年前に戦死した父の遺品が見つかった。小さな箱に記されていたのは「支那事変従軍記章」の文字。生前の母が語っていた話が頭をよぎった。「お父さんは、敵兵9人を殺して国から勲章をもらったの」
軍からの命令とはいえ、自分の父親が人を殺したのではないかとの思いが重くのしかかった。それは、広島は被害者であり加害者だとする栗原の考えと重なっている気がした。「日本の加害的な側面も伝えなければいけない」と決意した瞬間だった。
被爆者らで結成した「ヒロシマを語る会」に声を掛けられ、今年5月から証言活動に携わるようになった。当時の記憶はほとんどなく、「自分が語れるのか」という不安もあった。それでも、学んできた原爆文学や当時の資料を使って「自分なりに語ってみよう」と思い直した。
この日も、真夏の強い日差しが照りつける中、小中学生ら約170人に向けて自らの経験を丁寧に語った。松本さんは「たくさんの方が亡くなった中で、自分は生かされた。あとどれくらい生きられるか分からないけど、命のある限り、伝えていきたい」と話した。【中田敦子】
ヒロシマの碑
ヒロシマの碑は1982年に建立。平和学習を行っていた高校生らが、原爆ドームのそばを流れる元安川で原爆の熱線で溶かされた瓦を集め、碑の建立を呼びかけたのがきっかけで建てられた。碑には、集めた原爆瓦がはめ込まれている。
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