原爆投下から79年。あの日の記憶を紙芝居で伝える被爆者たちがいる。
元小学校校長の梶矢文昭さん(85)は自作の紙芝居を使って、学校などで被爆証言をしてきた。きっかけは1994年、当時校長を務めていた広島市の小学校で教員や児童から「被爆体験を話してほしい」と頼まれたからだった。「小学生五、六百人が相手で見えやすいように大きな画用紙を使った」。同市の教職員展に自画像を出品するほどで「絵を描くのは好きじゃった」。20枚超の紙芝居の絵は「ずっと未完成」で、今もパステルを使い描き足されている。
45年8月6日、国民学校1年生だった梶矢さんは2歳年上の姉文子さんと爆心地から約1・8キロの分散授業所にいた。現在の同市東区上大須賀町。民家を借りた臨時の教室だった。「ピカーッ」と閃光(せんこう)が一帯を覆い、爆風で民家は倒壊した。梶矢さんはわずかな隙間(すきま)から逃げ出したが、文子さんは柱の下敷きになり即死だった。父四郎さんが見つけ出した。縁故疎開をしていた文子さんは原爆投下の4日前、母ミヨノさんに「死んでもええからお母さんと一緒がええ」と懇願し同市内に戻ってきていた。「亡くなった姉はほほ笑んでいるように見えた。お母さんと一緒におれたからじゃろうか」。眼球や体中にガラス片が刺さり重傷を負ったミヨノさんは、毎年8月6日になると泣いた。「娘を死なせてしまった」と。
梶矢さんは今年4月に大腸がんの手術を受け、腹が痛む時もある。「死が見えてきた時、伝え残したい思いが強くなった。核を使えば人類は危ない。3度目は絶対に許しちゃいけん」。梶矢さんの口調は熱を帯びる。6月からは被爆証言を再開し、同市立毘沙門台小学校(同市安佐南区)では「10年後に私はいない。皆さんが子どもや孫に伝えてほしい」と訴えた。
広島県廿日市市の西岡誠吾さん(92)は77年から、被爆に関する資料を集め、絵を描いてきた。A4のコピー用紙にペンと孫娘からもらった色鉛筆を走らせる。「67年、アウシュビッツに行った時に(強制収容)体験者が描いた絵を見た。その時に絵は訴える力があり、説明も何もいらないと感じた」
被爆当時は県立広島工業学校(現・県立広島工業高校)の1年生だった。原爆投下の日は体調が悪く、建物疎開の作業を休み、爆心地から約2キロの学校に登校した。建物疎開の場所は爆心地から約600メートルしかなく、作業にあたった同級生192人は全員が亡くなった。西岡さんは顔や手に大きなやけど、足にも傷を負った。凄絶(せいぜつ)な体験をしたが、生き残った負い目をずっと感じてきた。「描ける間は少しでもあの怖さを伝えたい。同情も何もいらない」。工場などの施設設計を担うプラントエンジニアとして働いてきて、絵は得意だった。2016年には紙芝居「少年・十三歳の原爆体験」を描き、原本は原爆資料館に収蔵されている。
大腸がんを患い、肺も悪く息苦しさがつきまとう。「がんと聞いてもびくともしない。何よりも原爆の怖さを伝えたい」。今も思い立った時に筆を走らせる。
絵心を持つ二人の被爆者は、同じ病を患う。偶然か必然か。命をかけ、「核の恐ろしさ」を伝える使命感は強くなる。【大西岳彦】
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