「今でもここに来れば、焼け野原を思い出す」
陸奥湾を背に市街地を見渡せる、青森市の合浦(がっぽ)公園。夏の夕暮れ時、学校を終えた子どもたちの遊ぶ声が響く。戦前から植えられていたという松の並木に目をやりながら、田中博男さん(93)はつぶやいた。
田中さん、どんな人?
青森県内で長く小学校教諭を務めた田中さん。定年退職後、俊足だった昔の記憶を呼び起こして競技生活を始めた。マスターズ陸上、90~94歳クラスの200メートルなど数々の世界記録を保持し、地元では知られた人物だ。
しかし、14歳だった79年前の出来事を思い出すと、今なお若々しい表情に一瞬、陰りが見えた。当時の話に耳を傾けたい。
真珠湾攻撃、そして空襲へ
太平洋戦争末期の1945年7月28日夜。青森市は米軍機の空爆により壊滅的な被害を受け、1000人以上が亡くなった。
田中さんは当時、学徒動員で青森県東部、現在の六戸町にいた。空襲2日後に青森市へ一時帰宅した際の市内の光景を、今もはっきりと覚えている。
同県金木町(現五所川原市)で、元海軍兵で後に製氷会社に勤務していた父親と母親の元に長男として生まれ、ほどなくして移り住んだ青森市で育った。
41年12月、11歳の誕生日の朝だったと記憶する。ラジオから流れた真珠湾攻撃を伝えるニュースで、太平洋戦争の開戦を知った。「国全体が勝ち戦に突入したという感じで悲壮感はなかった。よくやったと思ったくらいです」
当時は週末になると合浦公園にあった競技場に出かけ、そこで行われる軍事教練を朝から晩まで見ていたという田中さん。ただ、43年にアリューシャン列島・アッツ島の戦闘で「全軍が玉砕した」と聞いて戸惑った。
「勝っているはずなのに」一人残らず戦死したとは、どういうことか。「違和感で、不安な感じだった」。徐々に悪化する戦況を子供ながらに感じていた。
青森空襲の当時は旧制青森中学校(現青森高校)の3年生。その頃、県内では本土決戦に向け、米軍が八戸の海岸から戦車で上陸し攻め込んでくると考えられていた。
そのため、45年7月10日ごろから担任や同級生らと共に六戸町の小学校に寝泊まりし、物資不足でスコップが足りない中、来る日も来る日も丘陵地帯に陸軍兵が隠れる穴を掘った。
町が壊滅「言葉も出なかった」
28日午後10時半過ぎに、米空軍のB29爆撃機62機が焼夷(しょうい)弾約8万3000発を青森市に投下した。学徒動員先で担任から「青森市が空襲に遭い、何もなくなった」と聞かされたのは、翌日の29日だった。
「家族はどうなったのか」。30日になると不安を抱える生徒たちのため、3日間の休暇が与えられ、田中さんらは青森市へ向かった。
動員先から1時間半歩いて汽車に乗り、空襲警報の合間を縫って、合浦公園付近に当時あった国鉄浪打駅にたどり着く。駅舎と階段は焼け残っていたが、町は壊滅状態で「まさに絶句。文字通り言葉も出なかった」。
現在、公園内の野球場が建つ場所にあった母校の校舎は焼け落ちていた。何もなくなった町に、駅と民家の土蔵、同市中心部で焼け残った数少ない建物の一つ、蓮華(れんげ)寺の屋根だけが見えた。
青森市中心部を流れる堤川の河口近くにあった自宅に急いで向かうと、焼け残った木片が立ててあった。父が勤める会社の事務所に家族が身を寄せていることを知り、胸をなで下ろした。
空襲当時、父は会社近くの田んぼに逃げ、弟は焼夷弾の降る中で母を連れて合浦公園まで避難し、家族は全員無事だった。
しかし3日間の滞在中にも米軍機はたびたび青森市上空を飛んだ。機銃掃射で命を奪われた人の話も聞いた。
「パイロットの顔が見えるほどの低空飛行。あれだけの焼け野原で、向こうは遊び半分だったかもしれないが、こちらは防空壕(ごう)に逃げながら心の底から恐怖を感じていた」
当時の心のよりどころは戦艦大和と戦艦武蔵だったと振り返る。今思えば、それだけで戦局が大きく変わるわけではないけれど、「押され気味だが今に勝ち戦になるはずだ。そのときは本気で思っていた」という。
その後、田中さんたちは再び動員先に戻され、そこで8月15日を迎えた。いつものように穴を掘っていると、陸軍将校が来て、雑音だらけのラジオ放送を聞かされた。
担任の先生が「日本が負けた」と教えてくれて、ようやく内容が分かった。「悔しいけれど解放された気持ち。これからは米軍機が飛んでこないという安心感が一番大きかった」
教師の道へ 説いた戦争の無意味さ
戦後は「自分にも何かできることがあるはずだ」と小学校教諭の道へ。自身の戦争体験を家族以外に語ることはあまりなかったというが、青森空襲の日や終戦記念日など折に触れて、教え子たちに戦争の無意味さを説いてきた。
戦後80年を前にした今、同世代も少なくなり「私たち戦争を知る世代が、平和を守らなければならないと、積極的に働きかけ続けなくては」と感じている。
世界に目を向けると、ウクライナとロシア、パレスチナとイスラエルなど、今も各地で戦争が続くことに心を痛めている。「全世界が本気で戦争の怖さを知り、それを後の世代まで続けていくしかない」
小学校教諭を定年退職する半年前、偶然目にした新聞記事をきっかけに始まったマスターズ陸上の競技生活は30年を超えた。今も新型コロナ禍を除いて毎年、世界大会に挑戦を続ける。
「武器を持って戦うのではなく、記録を持って戦う。スポーツにはやはり平和の鍵となる考え方があるのかもしれない」。今の目標は95歳での世界記録樹立。100歳での世界記録も見据え、平和への思いを胸に今日も走る。【江沢雄志】
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