初めて記した体験記を手にする栗田弥生さん(左)と幼なじみの山本誠一さん=長崎市茂木町で2024年5月8日午後1時46分、尾形有菜撮影

 「体が重く、とても走れる状態ではなくなりました」。国が指定した援護区域の外の長崎県の旧茂木町(現長崎市)で原爆に遭い「被爆体験者」とされている栗田弥生さん(88)が初めて体験を書き記した。集落対抗のリレーの選手に選ばれるほど足が速かったのに、被爆後は体がだるくなって思うように走れなくなった。その悔しさを、わら半紙5枚に書きなぐった。【尾形有菜】

 第二次世界大戦末期、栗田さんは空襲を避けるため、近所の5、6世帯の女性や子供たちと自宅近くの山中の岩場で寝泊まりしていた。国民学校4年の9歳だった。銀色の短冊のような物が二つ、空に流れてきたと思ったら、花火のような閃光(せんこう)が見えた。

 近くにいた高齢男性に「早く逃げないか」としかられ、防空壕(ごう)に向かった。爆心地の南東約8・5キロの場所だったが、逃げる途中に後ろからよろめくほどの衝撃を受けた。その後も岩場の溝に流れていた水を飲み、畑で作ったカボチャやジャガイモ、サツマイモを食べて飢えをしのいだ。

走れぬ体 戦後に異変

 戦後、体に異変が起きた。足が速いのが自慢だったのに、体が重くなって走れなくなった。理由は分からなかった。体がだるくて家や母が営む商店で横になっていると、「子供のくせにゴロゴロ寝てばかり」と叱られた。微熱が続き、高校1年の時に甲状腺疾患と診断され、手術を受けた。11年前には大腸がんが見つかった。

 体験をこれまで人に話す機会がなかったが、被爆体験者らでつくる「長崎被爆地域拡大協議会」事務局長で幼なじみの山本誠一さん(89)に頼まれて文字にした。夢中で鉛筆を走らせ、気がつくと朝5時。「言いたくても今まで言えなかったことを吐き出した。経験したことを分かってほしかった」

声は届かないのか

 山本さんは2月、被爆体験者への被爆者健康手帳交付を要請するために上京した際、栗田さんの体験記を持参。厚生労働省の担当者の前で読み上げた。

 その声は届かなかったのか。被爆体験者の救済を巡り、同省は国立長崎原爆死没者追悼平和祈念館が所蔵する被爆者の体験記を調査していたが、「降雨などを客観的な事実として捉えることはできなかった」と6月に結論付け、解決に踏み出さなかった。調査では雨の記述が茂木の2件を含む41件、灰など飛散物の記述が茂木の10件を含む159件見つかったが、「被爆からかなりの年数が経過して執筆されたものが多い」などの専門家の意見を踏まえ、切り捨てられた。

 8月9日には、長崎市を訪れる岸田文雄首相が、山本さんら被爆体験者団体の代表と初めて面会する予定だ。栗田さんは「一日も早く、被爆体験者が被爆者として待遇が受けられるようになってほしい」と願う。

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