商店街での火災の危険性を印象づけた2022年4月の北九州市・旦過市場の火災は19日で発生から2年となった。旦過市場は同年8月にも火災に見舞われたが、熊本市にも2度の火災の苦難を重ねた商店街がある。苦い記憶は消えはしないが、店主らは「昭和の雰囲気が残る商店街を次代につなぎたい」と前を向く。彼らがひかれ、守りたい価値とはどんなものなのか。
熊本市電の「河原町」電停から南へ徒歩1分ほどにある「河原町繊維問屋街」(中央区河原町)。通りの両側に長屋が建ち、空き店舗も含め数十店のエリアからなる。現在はカフェや食堂、雑貨店、アトリエなど20~30店が営業する。
ノスタルジックなたたずまいを気に入った若手経営者らの出店が増えており、近年はフォトスポットとしても人気を集めている。一級建築士の白橋祐二さん(39)も学生時代から足を運び、魅力にとりつかれた一人。「独立するならここで」との夢をかなえ、3年前に設計事務所を構えた。現在は管理組合の副組合長も務める。
1958年「長六の火災」、2016年に再び猛火
問屋街のルーツは戦後の闇市とされるが、その歴史には試練があった。1958年3月、当時市内で戦後最大と言われた「長六(ちょうろく)の大火」が襲う。多くの市民が焼け出され、前身の「国際市場」は大半が焼失した。市消防年報などによると、一帯の焼失面積は9272平方メートルに及び、被災者は800人以上に及んだという。
同年に現在の長屋の建物が建てられ再出発。時とともに繊維卸街から徐々に一般の商店街へと移りながら歴史を刻んだ。多くが空き店舗となった時期もあったが、2000年代以降はリノベーションなど再生の動きが進んできた。
そんな問屋街が再び火災に見舞われたのは8年前の16年3月12日朝。市消防局や当時の毎日新聞記事によると、けが人はなかったものの鎮火まで4時間以上を要し、7棟計約1200平方メートルを焼損した。古物店主の中村佳子(よしこ)さん(49)は火災発生時は出勤途中。到着して見た激しい黒煙に絶句した。結果的に自分の店は無事だったが、炎は数メートル先まで及んでいた。「店を再建できず人生が変わってしまった人もいる。すごく残念な出来事でした」と話す。
建物裏側には今も黒いすすが残る壁もあり、わずかだが痕跡もとどめる。焼けた一角は今では駐車場となり、商店街としての規模縮小も余儀なくされた。火災以降、問屋街では消火器を増やしたり、不審人物を見た際などの連絡網をつくるなど防火に努めてきたという。
問屋街の魅力は「距離の近さ」
2年前の旦過市場火災も、店主らの心を痛める出来事だった。学生時代にイベントなどで旦過市場を訪れていた白橋さんは「衝撃だった」と言う。中村さんも「同じように古い建物が密集し、路地が狭くて消防車も入れなかったりする。気持ちが分かるというか、他人事じゃないという気がしました」と振り返る。
しかしそれでも店主らが問屋街に感じる魅力は変わってはいない。「古い長屋形式の建物をなぜ残したいのか。いろいろみんなと話していて分かったのは、昭和の雰囲気も写真映えの良さもあるが、何よりも店と店、店と客の距離の近さだ」。白橋さんはこう力を込める。
店の1区画は3坪ほど。物理的な近さもあって店主同士が自然に掃除をともにしたり、屋根を修繕したりという関係ができている。訪れる客との対話も自然に発している。先人が残してくれた長屋は「コミュニケーションが生まれる関係性」を作り出す、優れた舞台装置というわけだ。
20日に感謝祭「次世代につなぐ」
そんなかけがえのない場所を「若者や子供たちの世代につなぎたい」。白橋さんと有志らはそう願い、昨年9月から「河原町感謝祭」というイベント開催に取り組んでいる。4月20日には3回目を現地で開く。店主らが商品を持ち寄るバザーや飲食・雑貨のブースが出店するほか、子ども向けの広場も設けられ、遊具や巨大シャボン玉、風景探しゲームなどが楽しめる。イベントの売り上げは長屋の補修に充てられる。【中村敦茂】
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