幕末、長部村(ながぺむら)(現千葉県旭市)を中心に房総の各地、信州・上田(長野県)などで農村を指導した大原幽学(1797~1858年)は、農業協同組合の先駆けとなる「先祖株組合」をつくるなど、農民救済のために尽力した人物だ。今も地元の人たちは幽学を「先生」と呼び、遺徳を伝える活動を続けている。その教えとは? 大原幽学記念館館長の宮負賢治さん(65)に聞いた。【近藤卓資】
――どのような人物だったのですか。
◆幽学は1797(寛政9)年に尾張藩(愛知県)の家老、大道寺家の次男として生まれたと伝わっています。18歳の時に生家を出て、関西方面で儒学や易学、和歌、経済、農業などを学び、34歳の時に指導者として生きる決意をしました。幽学の教えは「性学(せいがく)」と呼ばれ、道徳による人づくりを重視しながらも実践的で、農業技術や耕地整理、生活改善など多岐に及びます。
――なぜ長部村にやって来たのですか。
◆江戸中期以降、物価が上昇し、年貢の取り立ても厳しくなり、しばしば凶作も発生するなど、農村を取り巻く環境は厳しく、長部村では人の心もすさんでいました。村の惨状を危惧した名主が隣村で出会った幽学に村の復興を託したのです。
――幽学の指導によって人々の暮らしは良くなったのですか。
◆稲作技術を指導したことで、コメの収穫量が増え、農民の暮らしは安定しました。先祖株組合を組織した効果は顕著で、農家の没落を防ぐとともに、離農者が村に戻ってきたり、荒れていた水田が耕作されたりして村の復興が進みました。
――そんな立派な人が、なぜ江戸幕府に怪しまれたのですか。
◆幕府は百姓一揆を恐れ、農民が集まることに神経質になっていました。教導所として建てた「改心楼」に数百人の門人が出入りし、ばくちや遊行を禁止する性学を嫌うやくざが邪説だと伝えたことなどから、幕府が幽学の活動に疑いをもったと考えられています。
――非業の最期を遂げるのですよね。
◆1852(嘉永5)年、警察活動を担った幕府の「関東取締出役(かんとうとりしまりしゅつやく)」の企てにより、5人のやくざが改心楼に乱入したことをきっかけに、幽学への取り調べが始まりました。裁判は6年に及び、改心楼の取り壊し、先祖株組合の解散、幽学の100日間の謹慎が決まりました。謹慎後、門人たちに余計な苦労をかけたことや、悪道に戻る者がいたことなどを理由に「全ての責任をとる」と遺書に残して切腹してしまいます。
――今も慕われ続けている理由は。
◆幽学が残した性学は弟子たちに引き継がれ、全国有数の農業産出額を誇る旭市の発展の一助になったと考えられます。人々の暮らしの向上のために活動する生き方や、技術・知識と併せて道徳による人づくりを重視する考え方の素晴らしさは、色あせていません。
みやおい・けんじ
1958年、干潟町(現旭市)生まれ。同町、旭市の職員を経て、2019年から現職。幽学の研究者ではなく「ファン」と自称。4000点を超える資料を基に業績を伝えている。
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