旧防災対策庁舎に向けて献花後、黙とうする佐藤仁・南三陸町長(中央)ら=宮城県南三陸町で2024年7月1日、百武信幸撮影

 東日本大震災で町職員ら43人が犠牲になった宮城県南三陸町の旧防災対策庁舎は1日、町が所有・管理する震災遺構として新たなスタートを切った。旧庁舎の屋上で一命を取り留めた佐藤仁町長らが献花し、同僚ら亡き命を思い「未来の命を守るため活用していく」と誓った。【百武信幸】

 旧庁舎を巡っては当初、遺族や町民らの間に解体を求める声が強く、町は2013年に一度、解体を決定。その後、県の有識者会議が「防災を伝える貴重な財産で、保存すべきだ」と結論づけ、村井嘉浩知事も議論の時間を確保するために一時県有化を提案し、15年に町が受け入れた経緯がある。

 震災発生20年後の2031年まで県が管理する予定だったが、佐藤町長は今年3月、「あの場所を生き延びた者として任期中にけりをつけたい」として町有化と恒久保存を表明。震災伝承に果たす役割は大きく、町民や遺族感情が変化し保存への理解が広がったことを理由に挙げていた。

 佐藤町長は1日午前9時ごろ、震災復興祈念公園の一角を訪れ、骨組みをさらす庁舎の前で献花した。犠牲者に思いをはせ「魂はずっとここにいて、町が復興する姿を見ていてくれたのではないか」と語り、「心の真ん中にはずっとこの防災対策庁舎があり、永久保存を決めた。これからは町が責任を負い、町民とともに守っていきたい」と決意を述べた。

父亡くした男性「今後も対話を」

 南三陸町旧防災対策庁舎で、町企画課長だった父逸也さん(当時56歳)を亡くした町観光協会職員の及川渉さん(42)は早くから、保存か解体かの対立を越え、時間をかけて町民同士で対話する必要性を訴え続けてきた。新たな節目に「何を教訓にし、未来に生かすのか。みんなで話し合いを続けたい」と語る。

震災後にかさ上げされた南三陸さんさん商店街に立つ及川渉さん。そこから屋上が見える旧防災対策庁舎について「日常の風景に溶け込んできた」と話す=宮城県南三陸町で2024年6月28日、百武信幸撮影

 保存か解体か、町を二分する議論となっていた2015年、及川さんは町議会に県有化を望む請願を出し「何を後世に伝えるか立ち止まって考えてから決めても遅くない」と訴えた。

 暫定的な県有化が決まった後の20年には、町民全体に開かれた対話の場が必要と考え仲間らと「防災庁舎について考える会」を企画し、話し合いを重ねてきた。

 今年3月の町長の保存表明には「唐突な決定」と戸惑いつつ、「大切なのは建物の有無ではなく、災害から命を守るためどう伝えるか」と強調する。

 43人が犠牲となり、町長ら10人が生き延びた防災対策庁舎は世界的にも知られる存在だ。ただ「庁舎だけがシンボル的に扱われ、他の無数にある生死のストーリーが伝わらなくなるのは伝承にとっても好ましくない」として、庁舎だけに頼らない伝承の必要性を指摘する。

 及川さん自身、3年前に長男が生まれ、庁舎のある震災復興祈念公園を一緒に散歩する中で「100人に伝える語り部も大事だが、親が子に伝える、その積み重ねがあってこそ次世代に伝わっていく」との思いを強くしたという。

 息子にどう語り継ぐか、思い巡らせながら、親と子の世代が自由に語り合えるように「町民同士の対話の場をこれからも作っていきたい」と語った。

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