創作の原点であるヒロシマは、自らのルーツにつながる地なのだという。愛や平和、命をテーマに書き続ける詩人の高木いさおさん(70)=大阪府枚方市=は5月末、原爆ドーム(広島市中区)の前に4日間立ち続け、自作の詩4編を印刷した紙を来訪者らに配った。「世界のどこかで、明日が『ヒロシマ』になるかもしれない。そんな状況にいても立ってもいられなかった」。焦燥感に駆られつつ、詩の持つ力を信じて被爆地に向かった。
世界遺産の原爆ドーム前では、外国人や修学旅行生ら大勢が足を留めて説明板に見入っていた。「どこから来ましたか?」。高木さんはスマートフォンの翻訳アプリを活用して話しかけ、自身を紹介するサイトをタブレット端末で見せながら、ヒロシマとナガサキをテーマにした4編の詩を印刷した紙や写真をセットにして手渡した。用意した約130セットは滞在中になくなった。
戦後70年だった2015年にも、原爆ドーム前で自作の詩を配った。「私は詩を書けることに感謝しています。この詩を平和のために、社会を良くするために活用してほしい」。高木さんの願いを踏みにじるかのように、世界で戦火はやまない。ウクライナでも、ガザでも、核兵器による脅しが繰り返される。「戦争とは、誰かに愛されている人が誰かを愛している人を殺すこと。悲しみと怒りは、戦争絶対拒否を言わない日本の今にも向いています」
配布した詩の1編「8月6日」は、原爆詩人・峠三吉の作品「八月六日」を意識している。広島で原爆の惨状を見た峠の詩は「あの閃光(せんこう)が忘れえようか」と始まる。高木さんは書き出しを「忘れてはいけないことは/決して忘れてはいけない」とつづった。別の1編「明日、8月6日」には「何もしないでいたら/明日また、ヒロシマの日がやって来ます」と書いた。
この20年間で11冊の詩集を出した高木さんは、少年時代からヒロシマを意識していたという。生まれたのは京都市。両親とも広島にゆかりがあり、軍人だった父は原爆投下直後に救援活動に入ったと聞かされた。その体験を詳しく知る前に両親とも亡くなり、「父は何を見たのだろうか」という思いを抱いている。高木さんは今回の広島訪問で、重要文化財に登録された被爆建物の「旧広島陸軍被服支廠(しょう)倉庫」にも足を伸ばした。赤れんが倉庫の前に立ち「父は陸軍の軍人でした。ここにも来たのだろうか」と想像した。
初めて広島の平和記念公園を訪ねたのは19歳の時で、既に詩作を始めていた。その後も何度か被爆地を訪れ、作品を紡いできた。作品「8月6日」は11年の原爆の日、マツダスタジアムで開催されたプロ野球「ピースナイター」のセレモニーで俳優の斉藤とも子さんが朗読し、3万人もの来場者に紙が配布された。
いじめや児童虐待、東日本大震災……。命に関わるさまざまな題材を作品にしてきた。「10歳で詩を書き始めて60年。ヒロシマを原点にして人間の善意と悪意、愛と暴力について考えてきた。平和こそが幸せの第一歩であることを考えてほしいのです」
70歳の節目を迎えての行動は、広島から発信する意義を考えてのことだった。これまで「目立ちたくないので」と控えていた地元メディアへの取材にも応じた。詩人のメッセージに共鳴した人たちの行動が、共感の輪を広げていくはずだ。【宇城昇】
「明日、8月6日」
明日は8月6日です
ヒロシマの日です
広島に原子爆弾が落とされた日です
その原爆の爆風で熱線で放射線で
沢山沢山の人が亡くなりました
沢山沢山の人が苦しみ抜きました
そんなヒロシマの悲しみと苦しみを忘れてしまったら
2度目のヒロシマの日がやって来ます
ヒロシマの3日後にナガサキがやって来た時のように
何もしないでいたら
明日また、ヒロシマの日がやって来ます
ヒロシマを
そしてナガサキを
忘れないこと
忘れないで何かすること
忘れないで平和のために何かし続けること
戦争を肯定するごまかしを
暴力を肯定するごまかしを
うのみにしたり見過ごしたりしないこと
明日を8月6日にしないために!
明日をヒロシマにしないために!
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