ヤバっ、コースを外れた。教習車のハンドルを初めて握ってから数日。カーブで操作を誤ったとき、怒られないかとドキドキしながら助手席の「鬼教官」を意識するのは、誰もが通る道なのかもしれない。厳しい指導が、交通ルールを守り、安全運転ができるドライバーを増やすためなのは分かる。けれど、本当に効果的なのだろうか。いま、じわじわと増えているのが「ほめちぎる教習所」だ。
右足の動作が間に合わず、車が止まったのは一時停止のラインを踏み越えてからだった……。「ブレーキ!」と鋭く、冷たい指摘が飛んでくると思いきや、教習生に投げかけられたのは柔らかい言葉。「標識はきちんと確認できていたから、あとはブレーキの踏み方だね」
北海道帯広市の帯広第一自動車学校は「ほめて伸ばす」ことを看板に掲げる教習所だ。元々は厳しい指導を行っていたが方針転換した。
澤田智治専務は「運転の技術を伝えるのに有効なのは、怖がらせるのでなく、運転する楽しさを伝えること」と考えたという。内木真紀衣(ないきまきえ)社長は「ほめられた人は、運転中に人を思う気持ちが生まれます。その心を育てるのが、使命です」と力を込める。
第一自動車学校の約30人の教官(指導員)は、朝礼で互いに30秒ずつほめ合うのが日課。業務に関係ないことを探す。表情やちょっとした気遣いのようなよい点を見つけて、「いいね」と伝える。そのほか、教習中に実行したほめ方を一覧表にまとめ、教官の間で共有する。
すべての教官が一般社団法人「日本ほめる達人協会」(大阪市)の「ほめる達人検定」3級も取得する徹底ぶりだ。ある教官は「要は伝え方の工夫です。失敗してもできている部分は必ずあるので、そこをほめるようにしています」と話す。取り組みが認められ、6月に「ほめちぎる教習所認定校」になった。
ほめちぎる教習所は「認定」を得なければ名乗れない。認定校は第一自動車学校のほか、全国にわずか3校だが、資格を取得するため、約20校が指導法の見直しを進める。
2013年に取り組みを始めたのは、三重県伊勢市の南部自動車学校だ。卒業生へのアンケートで「ほめる指導」に対する満足度が2カ月連続で9割を超えれば合格。第一自動車学校は24年3~4月、312人の卒業生の99%が「ほめられてやる気が出た」と回答し、認定校になった。
厳しいのが定番の教習。ほめるにかじを切る教習所が、少しずつ増えているのはなぜなのか。優良ドライバーを育てたいという思いだけでなく、少子化を背景とした自動車運転免許の取得人口減少による経営環境悪化という教習所の事情もある。
内閣府の交通安全白書によると、22年末の運転免許保有者数は約8184万人で、18年から約47万人の減少。年齢層別の保有率は男性が30~69歳で90%を超えているのに対し、25~29歳は86・3%、20~24歳は78・0%と年代が低くなるにつれて減っていた。
「就職のために仕方なく免許を取得する若者が多くなり、叱ると極端に落ち込んだり、教習に来なくなったりすることも増えていた」。第一自動車学校の澤田専務は若者の気質の変化も感じている。
認定の制度を始めた南部自動車学校のプロジェクトの中心メンバー、橘英樹さん(49)はほめちぎる教習所を「ブランド戦略」と言い切る。従来型の厳しい指導をとるほかの教習所との差別化が奏功して、入校生の減少傾向に歯止めがかかり、増加基調を実現した。
狙い通りだったが、ほめる効果の果実はそれだけにとどまらなかった。実証されたのは、検定合格率の上昇や卒業生の事故率の低下だった。
南部自動車学校によると、ほめる指導を取り入れてから、80%台だった検定合格率は90%を超えた。12年に1・76%だった卒業後1年以内の事故率は20年に0・36%まで下がった。
安全運転のできるドライバーを増やしたい一心から、指導員時代に「ダメ出しの達人」との異名をとるほど厳しい注意を信条とした橘さんはほめる効果を確信したという。「当初は『運転ができていないのに、ほめてどうするんだ』という声が多かった。私も昔は同じでした。でも、数字が証明した。心に余裕があれば運転も自然と優しくなります。ほめる指導が目指すのは『心の教育』です」と説明する。
6月に帯広市であった第一自動車学校の認定式は、南部自動車学校の加藤光一社長も駆けつけ、内木社長に認定証を手渡した。加藤社長は「全国でいくつもの教習所が、ほめるスキルを上げようと取り組んでいる。教習生は世代によって価値観も異なるので、その人その人に応じたほめ方を追求し、運転の安全に寄与してほしい」とあいさつした。【鈴木斉】
鄭重声明:本文の著作権は原作者に帰属します。記事の転載は情報の伝達のみを目的としており、投資の助言を構成するものではありません。もし侵害行為があれば、すぐにご連絡ください。修正または削除いたします。ありがとうございます。