愛知県豊橋市の地方紙「東愛知新聞」の86歳の記者がこの春、静かにペンをおいた。「ゴトさん」の愛称で誰からも慕われた後藤康之さん。半世紀以上の記者生活を振り返り「生まれ変わっても、また新聞記者をやりたい」と屈託なく笑う。
4月30日、愛知県庁内にある記者クラブ。県内の政治・経済の動きなどを追う県政記者として、同社名古屋総局長の後藤さんが迎えた最後の日。後藤さんは夕方、この日の仕事を終えると、しんみりする様子もなく「また来週来るわ」と県職員に告げ、庁舎を後にした。
夕刊紙記者からスタート
1938(昭和13)年、名古屋市で生まれた。中高生時代から新聞記者に憧れ、「自分もいつかは記者になりたい」と思うようになった。
地元の企業勤務などを経て、28歳の時、知人の紹介で夕刊紙「名古屋タイムズ」(2008年休刊)に入社した。記者が書いた記事の誤字や事実関係に誤りがないかなどをチェックする校閲記者からスタートしたが、ほどなく現場で取材する社会部記者になった。
31歳で毎日新聞に転職。愛知や岐阜県内の地方支局を中心に55歳の定年まで勤め上げ、その後も中京テレビの記者として事件・事故を追い続けた。「まだまだ書きたい」と00年から東愛知新聞に活動の場を移した。
途方に暮れた長良川水害
記者人生で強く印象に残っているのは二つの災害。一つは1976年9月12日、台風17号の影響による豪雨で岐阜県安八町の長良川堤防が約80メートルにわたって決壊し、1人が死亡、町の約9割が浸水した「長良川水害」。後藤さんが家族で住んでいた毎日新聞美濃加茂通信部(岐阜県美濃加茂市)も浸水し、「どうやって取材しよう」と途方に暮れた。
72年7月に発生し、全国的に被害をもたらした「(昭和)47年7月豪雨」では、土砂崩れや河川氾濫などで住民32人が犠牲となった愛知県小原村(現豊田市)を取材。濁流で家屋やテーブルほどの大きさの岩がゴロゴロ流れてくる村に入り、「名古屋空襲で逃げた時と同じ恐怖を感じた」。
釣りで人脈づくり
一方、釣りざお職人だった父の影響で物心ついた時から釣りを覚えた。警察官など取材相手とも一緒に釣りに出かけ、人脈づくりにも生きた。
ここまで長く記者を続けてこられた秘訣(ひけつ)を問うと、後藤さんは「書きたいという強い思いと『やじ馬精神』だ」と迷いなく答える。先輩に「人が集まっていたら首を突っ込んでこい」と教わったことを愚直に実践してきた。
その一方、「年齢や病気もあり、お金をいただいて新聞を買っていただくのに間違いを出してはいけない」と記者の一線から退くことを決断したという。
「『やじ馬の特等席』でいろんなことを見たり、聞いたりできて、記者をやって良かったと思う。生まれ変わってもまた新聞記者をやりたい」と後藤さん。未練はあるが、悔いはない。
4月30日に東愛知新聞を退職したが、同社在職中、毎日新聞東海3県(愛知、岐阜、三重県)版と東愛知新聞で連載してきた釣りコラムの執筆は今後も続けるという。【荒木映美】
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