沖縄戦で負傷した左手の小指を切断し、ホルマリンに漬けて保管している知念勝盛さん=沖縄県南風原町で2024年4月16日、喜屋武真之介撮影

 第二次世界大戦末期に激しい地上戦が繰り広げられた沖縄は、今年も23日に「慰霊の日」を迎える。日本軍の巨大な飛行場が造られた伊江島は、米軍に狙われて「沖縄戦の縮図」と言われる凄惨(せいさん)な戦場となり、多くの幼い子どもたちも戦火にさらされた。

 伊江島出身で当時1歳だった知念勝盛さん(80)=沖縄県南風原(はえばる)町=の左手には、小指がない。1945年4月の米軍上陸後、勝盛さんを背負っていた母が米兵に狙撃され、銃弾は勝盛さんの左手に当たった。ちぎれかかっていた小指を父が刻みたばこで止血し、包帯を巻いて固定。奇跡的につながったが、動くことも成長することもなく、25歳のときに手術で切断した。

左手の小指を失った経験を基に平和を訴える知念勝盛さん=沖縄県南風原町で2024年6月21日、喜屋武真之介撮影

 戦争の記憶はない。ただ、日常生活では嫌でも左手が目に入り、そのたびに「戦争」が突きつけられる。「ヤクザ」「1歳のときを覚えているのか」。心ない言葉をかけられることもあった。切断した小指は「何かの証拠になれば」とホルマリンに漬け瓶で保管しているが、国は一部を除き民間人の戦争被害を補償していない。「お金が欲しいわけではなく、戦争被害者として認めてほしい」

 戦時中に父たちが「勝盛が泣いたら殺そう」と話していたことを兄から聞いたのは約10年前のことだ。勝盛さんはほとんど泣かなかったという。撃たれた出血で「泣く元気がなかったんだろう」。勝盛さんを苦しめてきた小指のけがが、皮肉にも命をつないでいた。

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 「私をドンって蹴ったの」。当時9歳だった伊江島出身の並里千枝子さん(88)=同県北谷(ちゃたん)町=は、右の太ももをさすりながらそう振り返る。1歳だった弟の清隆さんが生きようとあがいたあの日の感触は、今も鮮明だ。

 米軍上陸の数日前から艦砲射撃が激しさを増し、千枝子さんは集落内の「ユナッパチク壕(ごう)」に避難していた。地下約20メートル、長さ約100メートルあったが、住民と日本軍ですし詰め状態だったという。

 米軍上陸後に母の母乳が出なくなり、清隆さんが泣きやまなくなった。そこへやってきた日本兵が少年兵に清隆さんの射殺を命令。ためらう少年兵に日本兵は「それでも兵士か!」と暴行を始め、壕の中は恐怖で覆われていった。

1歳だった弟の清隆さんが死の間際に蹴った右足の感触を今も覚えている並里千枝子さん=沖縄県北谷町で2024年6月16日、喜屋武真之介撮影

 そんなとき、隣で母に抱かれていた清隆さんの小さな足が、千枝子さんの右足を蹴った。いつの間にか泣きやんでおり、「母乳が出たんだ」と安心したという。しかし、その足が動くことはもうなかった。母も清隆さんの顔を抱きしめ、胸に強く押しつけたまま動こうとしなかった。千枝子さんが清隆さんの死に気がついたのは、しばらくたってからのことだ。

 戦後、母は清隆さんのことを語ろうとしなかったが、62歳で亡くなる直前「早く清隆ちゃんを抱きに行かないと」と口にした。我が子を手にかけたことを「ずっと苦しんでいたのだと思う」。

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 泣き声で分けられた赤ん坊たちの生死。勝盛さんは切断した小指を手に、学校などで講演を続けている。戦争体験者は年々少なくなっているが、「当時最も若い世代の私たちを、最後の戦争体験者にしなくてはならない」。そう願っている。【写真・文 喜屋武真之介】

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