能登半島地震で倒壊した石川県内の家屋から、下関にゆかりのある捕鯨船「第二十五利(とし)丸」の模型が発見され、所有者から山口県下関市に寄贈された。地震発生から間もなく半年。石川在住の乗組員が1972年に製作した模型は地震を機に、半世紀の時を超えてゆかりの地に“帰港”した。
62年建造の第二十五利丸は船首に捕鯨砲を備えたキャッチャーボートで、全長68メートル、総トン数740トン。「世界で最も速くて美しい捕鯨船」の異名をとった。南極海に40回、北太平洋に26回出漁し、老朽化で02年9月に引退。その後、下関市に寄贈され、下関港に係留された船体は夏休みに一般公開されたが、見学者減などから14年に解体された。
模型は、大洋漁業(現マルハニチロ)社員で、第二十五利丸の機関士だった池端嘉彦さん(故人)が製作し、石川県志賀町の池端さん宅敷地内で見つかった。地震で家屋はほぼ全壊。既に空き家だったため、けが人などはなかった。金沢市から家の片付けに来た池端さんの次男嘉宣さん(56)が、被災家屋の離れから模型を発見。模型を覆う長さ約80センチのガラスケースを含め無傷だったという。損壊した家財道具は処分したが、父の模型は捨てられず、ゆかりの地・下関市に問い合わせ、今春寄贈された。
模型は全長70センチで、実物の100分の1スケール。木製で、金属製の部品が取り付けられ、塗装もされている。煙突部分には大洋漁業のシンボルマーク(○の中に「は」)。ケース内には、航行する船のモノクロ写真があり、「S47・10・31」と模型完成日が手書きされ、船への愛着が感じられる。
寄贈後、模型は下関市立大の研究室で保管。管理を担当する、元くじら文化振興室長で鯨食文化や捕鯨に関する研究を続ける経済学部の岸本充弘教授(58)は「ここまで精巧に作られているのは、製図がないと難しい」と驚く。「多くの学生に見てもらい、被災地にも思いをはせてもらえれば」と歓迎した。
第二十五利丸の捕鯨砲やいかり、スクリュープロペラ、風向風速計は下関市観音崎町のアンカー広場に残され、下関の捕鯨文化を語るうえで欠かすことのできない存在だ。嘉宣さんは「怖い人だったが自慢の父が作った模型。鯨文化に役立ててもらえればうれしい」と話している。
「最後まで海が好きだった父」
模型を寄贈した嘉宣さんは、父嘉彦さんについて「しつけに厳しく、口より先に手が出る人。怖い存在だった」と振り返る。
終戦後の混乱期に旧満州(現中国東北部)から一家で引き揚げ、新潟の水産高校を卒業すると、弟や妹を養うため進学を断念。大洋漁業に就職し、捕鯨船の乗組員になった。
機関士として1950~80年代に出漁し、石川の自宅から下関に出向いた。家にいたのは年に10日ほどという時期もあり、着替えなどの荷物は母が電車を乗り継いで下関まで届けていたという。
幼少期の父との思い出はほとんどないが、夏休みには3歳上の兄と一緒に海釣りに連れて行ってくれた。部屋には今回寄贈した模型や、マッコウクジラのひげや歯が飾られていたのを覚えている。
寡黙で「捕鯨の話は聞いたことがない」。しかし、忘れられないことがある。反捕鯨の流れを受け、82年に国際捕鯨委員会(IWC)が商業捕鯨の一時停止を採択した時だ。「これで南極海に行くこともなくなるな」。寂しそうな父の姿が記憶に残っている。
定年退職後は趣味の海釣りをしていたが、97年11月、海に浮くボート内で心筋梗塞(こうそく)で亡くなっているのを発見された。63歳だった。「最後の最後まで海が好きだったのでしょう」
地元・石川の復興は思うように進まないが、気がかりだった模型の行く先が決まり、安堵(あんど)感もある。「父の遺品をゆかりの地に引き継げ、感謝しかない。落ち着いたら下関を訪れてみたい」【橋本勝利】
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