第二次世界大戦末期の1945年4月、米軍による「城北大空襲」で亡くなった人たちを悼む第30回「4・13根津山小さな追悼会」が13日、東京都豊島区の南池袋公園で開かれた。空襲体験者ら約130人が参加し、鎮魂と平和を祈った。
体験者代表で追悼の言葉を述べた矢部広明さん(85)は、6歳で空襲に遭った。自宅は池袋駅の近くで「(45年は)年明けから連日連夜、空襲警報が鳴り響いていました。(米軍の爆撃機)B29の群れを見上げて、ごくたまに日本軍の高射砲が命中するとみんなで拍手をしました」などと振り返った。
4月13日深夜から14日未明の空襲は「いつもと違い外が騒がしく、母が雨戸を開けたところ赤い雪のような火の粉が降り注いでていました」。かぶっていた防空ずきんを水でぬらし、「炎で赤くなっていない、暗い方向を目指して走り続けました」。無我夢中で逃げ込んだ先が現在の南池袋公園で、当時は「根津山」と呼ばれた場所にあった防空壕(ごう)だった。
8歳の時、根津山近くの自宅で被災した青山巌雄さん(87)は「防空警報が鳴り始めてすぐに焼夷(しょうい)弾が落ち始めました」。いったんは自宅の地下に掘った防空壕に入ったが、危険と判断して外に出た。「周りは燃えていました。死ぬとか怖いとか考える余裕もなかった。どこをどう逃げたかも分からない」という。翌日の光景は「死者がたくさんいて、地獄絵でした」。ガザやウクライナなどで戦争が続き、当時の自分と同じような年ごろの子どもたちが苦しんでいることについて「見ていられない。戦争、殺し合いがないことを願っています」と話した。
追悼会は戦後50年の95年に始まった。公園は池袋駅から徒歩数分。広い芝生が人気で、この日も快晴の下、親子連れなどでにぎわった。
米軍による東京への空襲は100回以上で、城北大空襲では300機以上のB29が豊島区や板橋区、荒川区、現在の北区などを無差別爆撃した。死者はおよそ2500人、被災者は64万人に及んだ。豊島区は死者778人、人口の約70%の16万人以上が被災した。根津山は雑木林でコンクリート製の防空壕が数カ所あったことから、住民の避難場所になっていた。空襲後には多数の犠牲者が仮埋葬されたという。【栗原俊雄】
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