85歳の時にブログを開設し、太平洋戦争で軍医として赴いた戦地や抑留されたシベリアでの過酷な状況を書き連ねた男性がいた。97歳まで更新を続けたブログには戦争体験に触れた約140本の「手記」があり、異国の地に倒れた兵士たちを悼む思いや、「おつりの人生を生かさせてもらう」という晩年の心境もつづられている。男性は2023年12月に101歳で亡くなった。口下手だったという男性はブログで何を伝えたかったのか。
101歳で死去、手記140本
男性は福岡市早良区で暮らしていた高地(たかち)俊介さん。山口県で生まれ育ち、1930年代に父の転勤で、日本の植民地支配下にあった朝鮮半島の平壌へ移り住んだ。
平壌で中学を出て平壌医学専門学校へ進学。戦地で傷病兵の治療にあたる医師が必要とされ、42年に繰り上げ卒業して20歳の時に陸軍軍医として出征した。中国内陸部の湖北省などで従軍した後、日本の敗戦でソ連の捕虜となり、シベリアで3年ほど抑留された。
家族が住む福岡に引き揚げたのは48年。その後、内科医として福岡市内の国立病院で勤務した後に、同市早良区に医院を開業し、75歳まで患者を診た。
医院を閉じた翌年の98年、妻シゲ子さんが亡くなった。気落ちする高地さんを見て、長女の山崎康代さん(59)は「新たな趣味になれば」とシニア向けのパソコン教室を勧めた。高地さんは熱心に教室へ通い、2007年夏に「おちこぼれ」と題した自身のブログを開設した。当時85歳。夜中にパソコンに向かい、日常の雑記とともに、その年の暮れから戦時中の体験もつづるようになった。
康代さんは振り返る。「(父は)口下手だった。私たちに戦争のことを話してもぴんとこなかったから、覚えていることを書こうと思ったようです」
機銃掃射 短い水柱 一目散に
短期の教育で戦場に投入された若い医師たちは、消耗品になぞらえて「靴下軍医」と陰で言われたという。野砲部隊や歩兵部隊に同行し、戦闘が始まれば前線にまで付いていった。
「最前線の山頂に居た時、麓(ふもと)前方から『軍医殿、前へ』の声があり、ついウッカリ立ち上がり、声のした方を眺めた瞬間、下よりパシュッと狙撃された。途端に稜線(りょうせん)内に反射的に転げ込む」
「作戦行動中、谷間の棚田、僅か数十メートルの細い畦道(あぜみち)を通り抜けねばならない難所があった。山頂から絶え間なく機関銃が掃射してきた。水田の中に無数の短い水柱がその都度立つ。皆必死で弾の合間を読んで一目散に走り抜ける」
ブログの記述からは、死と隣り合わせだった戦場の情景が浮かび上がる。兵士たちが銃撃を受けて死んでいく姿や、傷病兵を介護しながらの行軍、慰安所での検診……。戦後60年以上たって書いたにもかかわらず、記述は詳細だ。康代さんは「特異な環境だったので、鮮明に記憶に焼き付いていたのでは」と推測する。
抑留「子や孫に絶対させたくない」
抑留されたシベリアでは、父から贈られた象牙製の聴診器など大切な持ち物を没収され、休みなく働かされた。冬は氷点下30度以下になる極寒で、栄養失調で亡くなる人も多かった。高地さんは「子や孫たちには俘虜(ふりょ)の思いは絶対させたくない」と書き残す。
ブログは13年にわたって続けた。康代さんは「家族のために書き残しておきたかったのと同時に、戦地から戻ってこられなかった方たちのことをしのび、体験を伝えていかなければと思ったのではないでしょうか」と話す。
ブログには、年を重ねて老いを感じる心境もつづるが、康代さんによると、100歳ごろまで一人でバスに乗って街中に出ていたという。最期は老衰で眠るように息を引き取った。
康代さんは、父が軍医として持ち歩いていた物をその遺志に沿って、福岡市で毎年開かれる平和祈念資料展の実行委員会に寄贈した。戦時中の記憶を伝える同展は今年も6月8、9日に福岡県教育会館(福岡市東区)で開かれ、高地さんが出征時に縁起担ぎとして持っていった日の丸の扇子やかばん、シベリアであてがわれた聴診器などが展示される。
同展実行委員会の事務局長、三本松陽子さん(71)は「(戦争体験者の)ブログの手記は初めて見た。軍隊の生活などが具体的に書かれ、当時のことが手に取るように分かった。ブログを読めば、展示品が更にリアルに感じられる」と語る。康代さんは「多くの人にブログを見てもらえれば、父も喜ぶと思う」と話している。ブログはhttps://nisn.exblog.jp/【山崎あずさ】
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