1945年の沖縄戦を指揮するため、首里城地下に造られた日本軍第32軍司令部壕。沖縄県政記者クラブが22日までに内部を撮影した。司令官室や参謀室があったとされる第3坑道や第2坑道、「エンジニアリングトンネル」と呼ばれる区間を写真と映像に収めた。つるはしで壁を削った痕が至るところで確認された他、エンジニアリングトンネルでは沖縄戦中のものとみられる坑木(こうぼく)を確認。第3坑道では「DAINIPPON BREWERY Co」と彫られた瓶が並べられていた。

守礼門近くの地下。進入坑道の階段を下りた地点から、第3坑道を写す。第3坑道は主に砂岩で構成されている。正面奥に見えるのはエンジニアリングトンネル入り口。坑道の幅は2.8メートル前後、高さ2メートル前後で、今回撮影した区間で最も広い区間=4月25日、那覇市・第32軍司令部壕(代表撮影)

 クラブ加盟の代表2社が4月25日と5月12日に撮影した。壕内に報道機関が入るのは2020年以来4年ぶり。2020年は第5坑道の映像が撮影・公開されている。今回と合わせて、現在立ち入りが可能な全ての範囲の写真・映像が公開された。

 カメラは、調査のために県が城西小学校内に造った「立て坑」から入った。第2坑道と第3坑道を合わせた約100メートルとエンジニアリングトンネル約10メートルの計約110メートルの区間を撮影した。

 

 壕に入るために、内部にたまっている地下水をポンプで排水し、酸素濃度が十分でない区間は送風機で外部の空気を中へ送った。

東西に延びる第2坑道。比較的に状態が良いため、梁(はり)を支える「支保工」を設置していない区間=5月12日、那覇市・第32軍司令部壕(代表撮影)

 県平和・地域外交推進課の担当者は「映像を公開することで壕内の現状を知ってもらうことができる。どのように活用できるのか考えていきたい」と話した。

 沖縄タイムスは、撮影された映像をホームページで公開している。第32軍司令部は79年前の5月22日、首里を放棄して南部に撤退することを決定した。(社会部・當銘悠)

 

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首里城が焼失して3年。あの時、沖縄タイムスで事件・事故を取材する社会部の警察担当記者(通称・サツ担)2人は沖縄のシンボル焼失を目の当たりにした。泣き崩れる住民、消火活動に奔走する消防隊員、原因究明に尽力する捜査員―。当時の取材メモを読み直し、写真とともにあの日を振り返る。

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