大阪府警で「指紋の神様」と称された鑑定員が今春、退職した。府警鑑識課鑑定指導室長だった正木啓史さん(60)。30年以上にわたって指紋一筋、丁寧な仕事と温厚な人柄から部署を超えて慕われてきた。難事件の現場に残された指紋をその確かな目でデータベースと照合し、解決に導いたケースは数知れない。培った技術とそれを支える職人魂は後進に引き継がれている。
地道な照合作業
現場に遺留された指紋を拡大鏡でのぞく。指紋それぞれにある隆起状のしま模様「隆線(りゅうせん)」の特徴を洗い出し、警察庁のデータベース上に蓄積された指紋と照らし合わせていく。頼りにするのは長年の経験と自身の目だ。
大前提として、運よく現場に残されて証拠品となった指紋も、完全な状態で残っていることはほぼなく、かすれていたり不鮮明だったりする。その分指紋の特徴をどのように捉えるかに照合の行方はかかってくるが、その作業は緻密で鑑定員の腕に左右される。
もちろんスムーズに一致する指紋は少なく、何千、何万分のデータを見続けても「かすりもしない」。そもそもデータベースに記録がなければ一致すらできず、どこで作業に見切りをつけるのか、頭を悩ませてきた。
「諦めたらそこで終わり」。そんなときは自身にこう言い聞かせてきた。果てしない作業でも納得するまで確認し続ける。一度作業を中断した指紋も、時間を見つけては一人作業にいそしむことも。「気になってまうんです。もしかしたら一致させてあげれたかもって」
被害者らへの思い
ここまで心血を注ぐのは、ある遺族との出会いがあったからだ。
平成13年に大阪市内で男性が殺害された強盗殺人事件。容疑者の浮上に時間がかかる中、現場に唯一の証拠として残されたのが指紋だった。この照合も困難を極めたが、鑑定方法を変えながら約5万件の指紋と照らし合わせた末に一致。この結果が捜査を大きく進展させ、事件発生から約3カ月後、容疑者の確保にいたった。
その後の公判で、正木さんは指紋鑑定の経緯を証言。有罪を見届け、法廷を後にしたところで、男性の遺族から呼び止められた。「あなたのおかげです」。手を握られ、何度も感謝の言葉を伝えられた。
「自分の仕事で救われる人がいる」。これまで日々の鑑定が、どう先につながっているのかを考えてこなかっただけに衝撃だった。
以来、どの事件の照合作業でも常に被害者やその家族に思いをはせる。困難な照合にぶつかっても、自身の家族が事件に巻き込まれたことを想像し、「自分が見つけたらなあかん」と奮い立たせてきた。
「人の目」だからこそ
高校卒業後の昭和59年、府警の一般職員として採用され、鑑識課の十指指紋係に配属となった。そこから始まった鑑定員としての人生。平成30年には卓越した技能や知識を持つ警察職員に与えられる「警察庁指定広域技能指導官」に任命され、後世の指導にも邁進(まいしん)してきた。
DNA型鑑定や成分鑑定など科学捜査は目まぐるしく進展しているが、長年照合作業に携わった経験から強くこう思う。
「今も指紋は重要な証拠の一つであることに変わりはない。指紋の照合は地道で繊細な作業。機械ではなく、人の目でしかできない」(中井芳野)
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