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出発点の1ドル360円に何が

 「1ドル150円」「160円」…、ディーリングルームの大画面モニターの数字が刻々と変わっていく。
 円安局面が続く為替市場をめぐるニュースが連日駆け巡っている。物価動向や企業業績に直結するだけに視聴者も敏感だ。
 円安の影響を報じる記事を見て、為替レートが現在の変動相場制でなく固定相場制だったら、“みんなとりあえず平穏でいられるかもなあ“と思うことがある。そんな時代が実際にあった。

 冒頭の画像は1949年4月24日の朝日新聞。「単一為替レート決まる 1ドル360円」の大見出しが躍った。号外も出した。
 その後22年あまり続く360円固定相場制のスタートであり、現在のマーケットを考える際の出発点である。

ダブル“見込み違い”で不意打ち食らう

 1ドル360円の決定は戦後日本の歴史的転換点だが、当時の新聞各紙でここまで大きな扱いとなった理由は、それだけではなかった。日本のメディア側に2つの大きな“見込み違い”があったとみられるのである。
 まず予想より少し早くいきなり出たこと。それも先にアメリカ発だったことである。
 そして最も重要な点は、1ドル330円のはずが360円だったことである。

 1949年4月という時期は長い観点ではほぼ予定通りだが、日本の新聞各紙記者・デスクからすれば、あわよくば為替レートの特ダネを狙おうという下心を持ちながら、サイド・囲み記事の出稿準備を本格化していたところ、アメリカ発360円のニュースに不意打ちを食らわされたに近いものだったのではないだろうか。

 この点で重要なのが、1949年当時に池田大蔵大臣の秘書官をしていた宮沢喜一元総理大臣の率直な証言だ。

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日本政府に「経緯」はなかった

日本政府に「経緯」はなかった

ドッジGHQ経済顧問・池田大蔵大臣会談(1951年) 右に宮沢喜一秘書官 この記事の写真は4枚

 宮沢氏によれば、「ドッジ=ライン」で有名なアメリカから派遣されたドッジGHQ経済顧問と池田大蔵大臣との1949年4月2日の会談で330円という仮想レートをめぐるわずかな会話が一度出た以後は、具体的な数字は一言も話し合ったことはなかった。
 為替レートの問題は司令部の中でもタブーであり、池田・ドッジの仲でも触れたことがなかったという(宮沢喜一『東京─ワシントンの密談』(実業之日本社、1956年)参考)。
 360円はアメリカ政府当局内での意思決定であり、発表直前に日本側に事前の相談・調整をしないどころか、内容も一切漏らさなかった。
 最終局面で何も知らされなかった日本側には政府内で「経緯」と呼べるような経緯はなかったのである。

 それが4月23日にアメリカのUP通信社(後のUPI通信社)のワシントン電で「1ドル360円、4月25日実施」の記事が出る。
 宮沢氏は後のインタビューで「全くの青天の霹靂で、はじめは本当だと思わなかったですね」(『朝日ジャーナル1969年3月2日号』)とストレートに振り返っている。

 “さすがに日本側に連絡があるだろう”。アメリカの事前通告や日米の調整の情報をいち早くつかもうと狙いを定めていたと想像できる当時の日本のメディアにとっては、元々の情報が国内に来なかったわけだからスクープも何もあったものではない。

“思ったより円安”感…概ね歓迎に

 こうして日本での経済ニュースは単一為替レート=1ドル360円という数字の受け止めからスタートすることになる。そのうえ事前に見込んだ本命の数字・330円と食い違っており、決定直前の経緯がわからないまま、様々な背景を持ち出して解説をしないといけない。

 ただ360円は見込み違いとは言え、330円と大きく外れていなかった。さらに2つの数字の対比の中で360円は“思ったより円安”という感覚が増す効果があった。
 産業への補助金がドッジ氏にビシビシ切られる中で、国内ではこの360円が円安として“概ね歓迎”くらいの論調で受け止められた。新聞各紙は輸入品の値上がりで家計の負担が1割くらい増えるという厳しい見方もあわせて報じている。

 しかし“おおむね歓迎”はあくまでマクロな話で、突然レートを変えられた個別の企業や関係者にとって360円のインパクトはあまりに大きかった。
 その一つがトヨタだった。

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トヨタは早くも為替対策を開始していた

トヨタは早くも為替対策を開始していた

輸出用トラックが並ぶトヨタ自工工場(愛知・挙母町(現・豊田市)、1949年) コスト切り下げを急いだ

 工場に輸出用トラックがずらっと並んだトヨタ自工(現・トヨタ自動車)。この360円で「円高」の試練となった企業の一つだった。
 大型トラックは従来1ドル420円で、一気に60円も円高になったのである。
 その中で「トヨタではすでに新レートを目標に合理化を進め、昨年の7月にくらべ銑鉄など資材歩留りの約20%引上げや労働生産性を1.7倍に高めたり、新規採用は抑えて配置転換を行うなどにより1台当り約1万円のコスト切り下げができ、新レートでも採算が取れると会社ではみている」(『朝日新聞1949年5月12日』)。
 トヨタ経営陣の為替レートへの対応はこんな時期から本格的に始まっていたのだ。

同じ420円商品…単一・固定レートで明暗

輸出される生糸の山(横浜・中区、1949年) 為替レートが大きく影響した

 トヨタの大型トラックは「今まで1ドル420円」だったが、360円以前の日本は「複数為替レート」という商品別の為替レートを適用していた。
 ざっくり言うと輸出商品は円安、輸入商品は円高にしていた。たとえば輸出品の茶は一ドル330円だが、輸入品の小麦は165円。
 さらに輸出商品でも競争力の弱いものは円安、競争力の強いものは円高にしていた。陶磁器は一ドル600円だが綿織物には240円もあった。
 補助金なども関係するが、ぜい弱だった日本経済に実に都合のいいレートではないか。
 それが発表翌日の1949年4月25日から一律360円に変わるわけである。

 先に例を出した大型トラックと同じ1ドル420円商品が生糸だった。
 しかし360円の「円高」になった生糸業界は、長野・群馬県で「レートが決まったからといって直ちに特別の対策が取り上げられている様子もあまりなく」(『朝日新聞1949年5月10日』)とのんびり語られている。トヨタの対策と対照的だ。
 その後の紆余曲折があったとはいえ、現在、トヨタは世界販売台数トップとなり、一方の日本の生糸業界は非常に厳しい局面が続いている。

 不意打ちで日本を揺るがせた1ドル360円。後にアメリカ側で行政文書が徐々に公開され、レート決定の結論に至るアメリカ当局の意思決定過程が明らかになるはずだったのだが…。

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360円の米当局発案者は依然ナゾのまま

360円の米当局発案者は依然ナゾのまま

米NACスタッフ委員会の360円変更案(財務省ホームページから)

 1ドル360円レート決定のナゾの解明は、アメリカ側の行政文書の公開で進んだ。
 その結果、1ドル330円での動きに対して、アメリカ当局内の権力闘争・縄張り争いを含むすったもんだの末、1949年3月25日NAC(国家諮問委員会)にNACスタッフ委員会が提案した360円変更案が、3月29日の勧告として決定されたことが記録で残っている。
 意思決定としてはとりあえず、ここが出発点とみられる。

 ところが国際金融の研究者によれば、360円変更案をまとめたNACスタッフ委員会について、変更案をまとめた回の議事録だけが欠落していたのである(伊藤正直『戦後日本の対外金融』(名古屋大学出版会、2009年)参考)。
 偶然と言うべきか作為があったのか…。結局、様々なバックグラウンドはわかるものの、現時点では史料で「360円」への変更の発案者は突き詰められていない。
 歴史的な重要事実で、現在のマーケットの出発点といえる「360円」を発案した人物は依然ナゾなのである。

 ナゾに始まった360円レートが固定し日本経済の成長に寄与した時代。郷愁をもって振り返る日本人も多いだろう。
 ただ現在進行形だった当時の宮沢氏は先の1969年のインタビューでこうも語っているのだ。
 「もし1ドル300円に決まっていたらどうなっただろうかというようなことを冗談半分でいうんですけど、それは『あの時いまの女房と結婚しないで別の女と一緒になっていたら、いまの家庭はどうなっていただろう』というようなものです」と。

(テレビ朝日デジタル解説委員 北本則雄)

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