装置メーカーは「トップ10」に5社がランクイン
半導体業界の中でも、「製造装置メーカーと材料メーカー」に目を転じると、そこには違う景色が見えてきます。
半導体装置メーカーの2005年における売上の世界トップ10は次の表の通りで、1位のAMAT(アメリカ)以下、東京エレクトロン(日本)、ASML(オランダ)、KLAテンコール(アメリカ)、ラムリサーチ(アメリカ)、アドバンテスト(日本)、ニコン(日本)、ノベラス(アメリカ)、SCREEN(日本)、キヤノン(日本)で、日本メーカーが5社を占めています。
装置メーカーの売上ランキングの推移(出所:VLSIリサーチ)※外部配信先では図表を全部閲覧できない場合があります。その際は東洋経済オンライン内でお読みください
2009年になると、3位だったオランダのASMLがトップに立ち、同じくオランダのASMインターナショナルがベスト10に入ります。日本の製造装置メーカーは1社減ったものの、依然として4社がトップ10に入っています。2020年になると、AMATが首位をASMLから奪い返し、新たにテラダイン(アメリカ)、日立ハイテク(日本)がトップ10にランクインしています。
このように日本の半導体装置メーカーはデバイスメーカー(半導体メーカー、IDM)に比べてはるかに健闘しているといえます。ただ、詳しく見ていくと、トップ10の中での順位は少しずつ低下してきており、決して安心できる状況ではありません。
日本の装置メーカーには、新技術や新方式に対する果敢なチャレンジと、デファクトスタンダード(事実上の標準)化に繋がる開発力、さらにはしかるべきリソース(人材、資金)の投入が必要でしょう。
また韓国、台湾、中国は、「半導体デバイスの次は製造装置」と、すでにターゲットを製造装置の分野にしっかり絞り、猛追してくるのは必至です。それを振り切って現在のポジションを維持、さらには向上させていかなければなりません。
まだまだ大きな存在感を示す「材料メーカー」
ここでは製造装置メーカーについて見てきましたが、日本の材料メーカーは、それ以上に頑張っているといえます。
例えばシリコンウエハー、露光用マスク(レチクル)、成膜やエッチングなどに利用されている高純度ガス、あるいは薬液などで日本メーカーは世界的に大きな存在感を示しています。
ただし、外国メーカーは、デバイス分野から装置分野に進出を図っているのと同じように、「次は材料分野!」と狙っているのは当然のことですので、それに抗して優位性を保ち続けられるよう万全の備えが必要でしょう。
最近のニュースでも報じられているように、シリコンウエハーメーカーのSUMCO(日本)に国が750億円の支援を行なうとか、レジストメーカーのJSR(日本)を官民ファンドの産業革新投資機構(JIC)が1兆円で買い上げるなど、材料メーカーへのテコ入れが国レベルでもようやく始まっています。
1970年代の後半から、日本企業による半導体の対米輸出が増加していました。1981年には世界半導体市場シェアの50%を超え、64キロビットの先端DRAM(メモリ)に至っては、実に70%超を日本メーカーが占めるに至っていました。
アメリカの社会学者エズラ・ヴォーゲルの著書『ジャパン・アズ・ナンバーワン』にも示されているように、戦後日本の急速な経済復興の波の中で、日本の半導体は「日の丸半導体」と持ち上げられ、半導体産業界全体が繁栄を謳歌していた(浮かれていた)と思われます。
つまずきの第一歩は「日米半導体協定」だった
しかし、半導体は各種兵器の高性能化などにも利用されるため、アメリカは「国防上の懸念」をある意味で錦の御旗とし、アメリカ半導体工業会(SIA)は1985年にアメリカ通商代表部(USTR)に日本の半導体メーカーを「ダンピング違反」として提訴しました。
この提訴を受け、半導体に関する日米貿易摩擦を解決するという名目のもと、「日米半導体協定」が締結されました。この協定は1986年〜1991年の第1次、1991年〜1996年の第2次に分けられます。
第1次協定の主な内容は、
・日本の半導体市場の海外メーカーへの開放
・日本の半導体メーカーによるダンピングの防止
というものでした。前者に関しては第2次協定で明文化された、「日本の半導体市場における外国製半導体のシェアを20%以上にすること」との密約があったとされています。
しかし、1989年の半導体世界シェアのメーカー別の順位を見てもわかるように、NEC、東芝、日立、モトローラ、富士通、TIと、依然として日本メーカーが上位を占めていたため、1991年に締結された第2次協定では、上記20%以上との数値目標が、第1次協定からのダンピング防止条項に加えて明記されるに至りました。
この協定により、日本の半導体メーカーの現場でどんなことが起きていたかは、おそらくその場に身を置いていた関係者以外、知ることはないでしょう。
そこで、筆者自身、辛酸をなめるに至った舞台裏を記しておくことにしましょう。
無理難題を押し付けられた、まさに「不平等条約」
まず日米両政府が日本の半導体メーカーに対し、半導体製品の「コストデータの提出」を求めるようになりました。
いわゆるFMV(Fair Market Value:公正市場価格)を算出するためという名目で、当時、担当者だった筆者たちはどのような対応を余儀なくさせられたか。
一日の終業時に「ラインで流れた個々の製品にどれくらいのリソースを掛けたかの報告義務」を課せられるようになりました。多くの半導体工場では、異なる製品が同じラインで製造されています。
このため、製品ごとにそれぞれのプロセスで使用される装置や材料、あるいは作業に掛けた人件費の割合(賦課率)などを算出するというのはたいへんな労力です。
そもそもDRAMで日本メーカーが圧倒的シェアを占めているのは「ダンピングによる安売りをしているためでは?」との疑いから、「日本の半導体の価格はアメリカ政府が決める!」という、とんでもない取り決めだったといえるでしょう。
さらに現場サイドにボディーブローとして効いたのは、「日本市場における外国製半導体のシェアを20%以上にする」という条項です。それまで外国製製品が10%だったのを倍増しなければならないという「購買義務」だったのです。
このような日米半導体協定の発効が原因のすべてではないにせよ、第2次協定締結(1991年)の翌1992年には、半導体市場において1989年には8位にすぎなかったインテルが一気にNECを抜いて世界1位になり、DRAM(メモリ)の分野ではサムスンが日本メーカーを抑えて1位を占めるに至りました。
当時の"トラウマ"がその後の政策にも影響を
このような不平等な半導体協定を呑まざるを得なかった日本の半導体業界が受けた直接的ダメージはもちろん、当時の政府の対応や結果として残されたトラウマが、その後の半導体業界と政策に大きな負の影響を残したのは間違いないでしょう。
『教養としての「半導体」』(日本実業出版社)。書影をクリックするとAmazonのサイトにジャンプしますその後も半導体に関するいくつかの官民合同の国家プロジェクト、ASET(技術研究組合超先端電子技術開発機構)、Selete(半導体先端テクノロジーズ、通称セリート)、ASPLA(先端SoC基盤技術開発)などが起こされましたが、結果としてどれも日本の半導体産業全体の復権に寄与したとは思えません。
その大きな理由は、まず達成すべき明確なテーマの設定、各社からの派遣メンバー(お付き合い意識を超えて自社のエース級を出したか?)、予算がテーマ別に細切れであまりにも少額、国の政治的介入、経過と結果に対する評価基準の曖昧さ・甘さ等々によると考えます。
いっぽう、同じ時期の韓国、台湾、そして近年では中国がそれぞれの政府の手厚い庇護のもと、半導体産業を大きく伸ばしたのとは対照的です。
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