6代目女将として旅館「つるや」を受け継いだ小田絵里香さん(写真:筆者撮影)

親の家業でもない、生まれ育った土地でもない。自分とはゆかりのない地方でも、新たな仕事にチャレンジする人たちがいる。

福井県あわら市で明治時代から140年続く温泉旅館「つるや」を取り仕切る女将・小田絵里香さん(50)もその1人だ。絵里香さんは2022年5月、夫・小田與之彦さん(55)とともに後継者のいなかったこの老舗旅館の経営を引き継いだ。

加賀屋から独立、老舗旅館を承継

絵里香さんのことを、石川県能登で有名な日本一の旅館「加賀屋」の元若女将として知る人も少なくないだろう。相談役に退いていた夫の父である先代が経営に復帰したのを機に、夫婦で「つるや」の承継に動き、福井に拠点を移した。

旅館の建築美を伝え残していくこと、「女将」がいること、和服の装いを手放さないこと。どれも、流れに任せれば失われていくものばかり。絵里香さんは、決してたやすくはないこの世界の真ん中に、自らの人生を築きにいった。

受け継いだ旅館と共に、人生の「第2の創業」と位置付ける。女将をなりわいとして選んだ自身の道のり、必要とされる役割とは。女将・小田絵里香の半生を取材した。

北陸新幹線の「金沢・敦賀延伸ルート」開業まで1カ月半に迫った2024年元日、石川県能登地方を大地震が襲った。

加賀屋のある和倉温泉の旅館街は建物や道路、水道インフラなどが損壊し、壊滅的な被害を受けた。

一方、「芦原温泉駅」の開業準備に追われていたあわら温泉は、地震による被害はほとんどなかったものの、旅行のキャンセルが相次ぎ、新幹線延伸のPRムードは一気に冷え込んだ。

なすすべもなく立ち尽くす旅館の人たち。そんな落ち込んだ状況から一歩前進させてくれたのは、ほかならぬ和倉温泉の女将さんたちだった。

揺れが襲った瞬間何が起こったのか、宿泊客の帰路をどう確保したのか。何が必要で、どんな準備が足りていなかったのか。

震災からわずか1カ月後、あわら温泉の旅館を会場に、和倉の女将さんら3人を招いた懇談会が開かれたのだ。生々しく鮮明な震災の体験談が語られ、次の災害への備えや対応策が伝えられた。そして、あわらの女将さんに向け、こんなエールが送られた。

「新幹線開業を機にあわらを盛り上げて、能登や北陸全体の元気を引っ張ってほしい」

和倉とあわら、2つの温泉地で「女将さん」をつないだのはいうまでもなく、絵里香女将の存在だ。

絵里香さんは1973年に福岡市で生まれ育った。日本エアシステム(JAS航空)に入社し、統合先の日本航空を含め、客室乗務員を8年務めた。加賀屋を経営する小田家の長男、與之彦さんと結婚したのは31歳のとき。以来、旅館業に携わるようになった。

つるやの代表を務める小田與之彦さん(左)と絵里香さん (写真:筆者撮影)

「嫁いだときは本当に無知でした。20代のようなキラキラした感覚で結婚して、旅館のお仕事がどういうものかわからず、何も考えていませんでした。だから迷わず来られたのだと思います」

加賀屋が「日本一」と評価されるのは、300人を超える従業員とともに、230室、1日最大1000人が宿泊する大規模旅館を運営するノウハウと、”加賀屋イズム”とも称される徹底した顧客対応力にある。

客室係や料理人など自立した「個」が、それぞれの持ち場で持てる限りの裁量と、精一杯の感性で客を迎える。それを引き出すのは、指揮者とも呼べる女将の采配だ。

ある日突然加賀屋の女将に

加賀屋に勤めるようになると、義母の女将・小田真弓さんにぴったりと張り付くように毎日を過ごした。おもてなしの所作、立ち居振る舞い、その「心」までを自分の中に取り込もうと必死だった。

「最初は自分に自信がなくて。それでも、皆さんから期待されるような女将になりたいと思っていました。ときには従業員に寄り添うことを重視したり、指揮棒を振らなきゃと頑張ってみたり。周りの顔を見ながら過ごしていた時期が長かったような気がします」

嫁いで10年が経った2014年、與之彦さんが代表取締役社長に就任した。ある日、「少し風邪気味だから」と1日休みをとった女将が、次の日も、その次の日も現れない。代替わりを公にするような儀式もなく、ある日突然に託された館だった。戸惑い、ふと振り返ると、客室係は心が定まらず、現場は混乱していた。

「誰かが決めないとこうなるんだ――」不思議と怖さや重圧感はなかったという。内側から湧いてきたのは、「わたしがやる」という意志のようなものだった。もう、嫁という“お飾り”ではいられない。自分の中に変化が起きるのに、時間はかからなかった。

そんな加賀屋で過ごした約20年は、自身の内面にとおる”一本気”を、確実に太くした。

夫と義父との考え方の違いから、加賀屋の経営体制に決定的な変化が訪れたのは2022年に入ってからのことだ。ちょうどそのころ、金融機関を通してあわらの老舗旅館が次の主人(あるじ)を探していた。独立独歩で興す「女将」としての次のステージが、必然としか思えないタイミングで目の前に現れた。

「つるや旅館の6代目女将になる」

受け身でも逃げでもない。覚悟を決め、夫と2人、はっきりとつかみに行った。

米作りから酒造りまであわら温泉の女将たちが共同でつくる限定の純米吟醸酒「女将」をお勧めする絵里香さん(写真:筆者撮影)

あわら市は福井県の最北端に位置する。1883年、ひとりの農民が灌漑用の水を求めて水田に井戸を掘ったところ、約80度の塩味の温泉が湧き出たのが芦原温泉の始まりだという。その翌年、「つるや」は数軒の温泉宿とともに開業した。

現在のつるやの建物は1957年、大阪の数奇屋建築の名棟梁・平田雅哉氏の設計施工によるものだ。

数奇屋建築の名棟梁・平田雅哉が設計施工した「つるや」は敷地内に3つの源泉を持つ(写真:筆者撮影)

改修作業中、街の大火に巻き込まれ全焼する惨事に見舞われるものの、1年後、平田氏本人の手によって再建した。建築の技巧だけでなく、その思い入れの深さが、随所に宿る。木彫りの腕前や独特の意匠に惹きつけられて訪れる客も少なくない。

旅館の近くに新幹線の駅が開業

つるや旅館から車で5分ほど走らせた場所には、2024年3月16日に「芦原温泉駅」が開業した。

9年前、北陸新幹線の金沢駅開業がもたらした来訪者急増のインパクトを、小田夫妻は加賀屋で経験している。当時、宿泊者数は前年より15%、売上高は20%増加し、客室稼働率は過去最高の約90%に達した。

北陸新幹線延伸ルートのPRイベントにあわら温泉の女将さんとともに参加した和倉温泉の女将さんたち(前列)=2023年11月(つるや提供)

だがそれは新幹線の力だけではなかったことを、絵里香さんは誰よりもよく理解している。

「和倉は能登半島の先にあって、お客さんはまっしぐらにそこを目指して来てくださいました。それは、和倉の旅館の人たちが、目的地になるために昔から一生懸命努力を続けた結果なんです。たくさん温泉地があるのに、和倉を選んでくださった。ありがたい、ぜひまた来てほしいという心からの気持ちで接する。お客様への『おもてなし』を腹いっぱい、自分たちのDNAで持っているんですよね」

よそからやってきたからこそ見えていた、能登、和倉、加賀屋旅館の強さがある。「日本一」や「老舗」にあぐらをかくことなく、人を通して地域の文化の継承と革新に絶え間なく向き合ってきた。その基盤があってこそ発揮された、吸引力なのだ。

そんな地元、和倉温泉を襲った今回の大震災。絵里香さんは震災直後に和倉を訪れ、言葉を失った。資金的にも継承の面でも、元の姿を取り戻す道は険しい。胸が締め付けられた。加賀屋を含め22軒ある和倉温泉の旅館のほとんどが、震災から3カ月が過ぎた現在も、営業再開のめどが立っていない。

千年に一度ともいわれる大規模地震の1年以上も前に、あわらに拠点を移していた意味を、与えられた役割を、考えないわけにはいかない。和倉温泉全体の復興に小田家は必要不可欠な存在になるだろう。だが、あわらにいる自分にしか負えない役目がきっとある、そう考えるようになった。

「私たちがしっかりしなければ」

被災地から戻って、絵里香さんは気持ちを前に押し出すようになった。

「私たちまで一緒に落ち込んでもどうにもならない。商売ができるだけでありがたいことなんだって、私たちが能登の応援県にならなきゃいけないって。私がいちばん年下なのに、あわらの女将さんたちの前で、そんなこと言ってしまったのです」

旅館同士で連携する「女将の会」

1人の存在が要となって、互いのためにできること、やってみたいと思えること、関わりたいと思う仲間が増えていく。

あわら温泉は旅館同士で連携する「女将の会」の結束が強い。後継者のいる旅館も多く、全国の中でも希望のある温泉地だと絵里香さんは自負している。

冒頭の、震災の講話会が開かれたように、これから復興に向かう和倉温泉の人々の経験やおもてなしの実践を生かし、学び合う場、助け合える場にしていけるのではないか、そんな期待が湧く。

表看板の「顔」としての接客から、スタッフの統括、設備や料理内容の管理まで「女将業」の中身は実に多岐にわたる。働くうえで何に重きを置いているのか。絵里香さんに尋ねると、すぐにこんな答えが返ってきた。

「最前線で働く人の苦しみや悩みを取り除いていくことが女将の仕事。それが、経営者の仕事ナンバーワンだと思っています」

つるやの経営を引き継いだ初日のこと。この職場がどう変わるのか、どう変えてくれるのか、不安ながらもワクワク感のほうが上回る従業員たちの雰囲気を、絵里香さんは全身で感じ取っていた。

「1人で指揮棒を振ったところできれいな音なんて出せるわけがない。私1人の力では何もできないって、加賀屋で痛いほどわかっていましたから。いちばん大事なことは、いかに1人ひとりの自分ごとにしていけるか。個が主役になってはじめて、調和のとれたオーケストラになりますから」

感性が向くところ、得意なことを探りながら、あなたがいるべき場所はここ、あなたの仕事はこれ、と役割を示していく。反対に、私の苦手な部分はカバーしてほしいと助けを求めた。

すると「これやっていいですか?」という確認が、「これやりたいんですけど」という提案に変わっていく。そのプロセスに至る最初のきっかけを、女将が、揺り起こす。

「先輩をみて、感性を磨く。喜ばれて、ありがとうと言われ、そこに感動や成長が生まれる。それをかなえるのは結局、日々の繰り返しの訓練と鍛錬しかないのだけれど」

相手は人間だから面白い

旅人に、文豪や皇族、役者、政治家など、時代をつくり彩った人々をも惹きつけてきた、老舗の温泉旅館。訪れる人、迎え入れる人、価値の中心に「人」がいて、その佇まいや風情、ふるまいの洗練された姿が、日本の伝統文化そのものになった。

「今日の対応はあれで正解だったのかな、こないだはよかったのに、今回はどうしてうまくいかないんだろうって、本当にいつも考えています。答えが出ると思ったら、出ない。やっぱり相手は人間ですから、当然ですよね。答えがない。だからおもしろいんです」

テクノロジーの進化をいかに取り込むか、競争を強いられるような時代環境にあっても、人を慮り、機微に触れ、粋に感じられる心遣いの担い手を生かし、育てていくことは、どこまでも「人間の領域」であるはずだ。
「きっと、役割があるのかな」と絵里香女将は語った。

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