Facebookやインスタグラムで著名人になりすました詐欺広告が大きな問題となっている。
詐欺広告に顔と名前を使われた前澤友作氏と堀江貴文氏が自民党の会合に出席し、問題提起した。自民党議員の中には「広告停止を求めるべき」との声も出ていると報じられたが、Facebookを運営するMeta社が出した声明文は「防ぐのは無理なので社会の問題ですね」という無責任な内容で、余計に批判を浴びている。
この問題は、「ネットは無料でコンテンツが手に入る場」という常識が変わる兆しかもしれない。
今後ますます詐欺広告が社会問題化し、前澤氏が訴訟を起こす可能性もあるなど、具体的な展開がありそうだ。日本でのネット詐欺を行う集団をタイ当局が逮捕したニュースも伝わり、国際的にも取り締まりが行われている。
ただ次から次に犯罪者たちが参入してくるだろうと思うと、解決は遠いだろう。Metaが言う通り、解決できないのかもしれない。ただ、広告主企業は今Facebookへの広告出稿を議論しているはずだ。詐欺広告と自分のブランドを並べたくはないだろう。
SNS2大巨頭が有料化を検討
一方でMetaは昨年、欧州でFacebookの有料プランを発表している。EUは一般データ保護規則(GDPR)でネット企業の個人情報取得を厳しく制限しており、その対策として広告を見なくて済む有料制を始めたのだ。その価格は月9.99ユーロ(約1580円)で意外に高い。
X(Twitter)についてもイーロン・マスク氏が有料化を示唆する投稿をした。すでにフィリピンとニュージーランドでは新規のみ月1USドルを徴収する制度を試行している。ボット対策として有効と考えている様子だ。なにしろ今のXはインプレゾンビ(閲覧回数を稼ぐために投稿を繰り返す迷惑アカウント)が徘徊するディストピアと化しつつある。有料化のような抜本的変更をしないと人が寄り付かない場になりかねない。
FacebookとXはこれまでのSNSの2大巨頭のような存在だ。その巨頭たちが有料化を始めたり検討したりしているのは、ネットという世界にパラダイムシフトが起きようとしている現れではないだろうか。
ネットは無料で自由な世界として受け止められていたと思う。そこには、単なるインフラを超えた思想めいたものもあった。旧世界より新しく、進んでいて、自由な社会がもう一つ別に存在しているように私も感じていた。その自由を裏で支えていたのが広告モデルだった。
新しいサイトやサービスを無料で立ち上げて、人が集まりさえすれば広告モデルで事業化できる。実際それでFacebookは大学生の出会い系ツールだったのが、世界の交流を支える一大インフラとなった。Xは見知らぬ人同士を趣味嗜好で結びつけコミュニティが自然に生まれるグローバルな広場となった。
広告モデルがある無料サービスだから、つながることができ、ビジネスをアイデアひとつで生むこともできた。広告から支えられた自由を、広告がいま侵そうとしている。
生成AIが生み出すコンテンツは著作権違反か
詐欺広告は「犯罪」なのでわかりやすい。だが記事(ネット広告を荒らす「悪意」に社会は勝てるのか)で説明したMFA(広告目的のサイト)などの得体の知れないサイトが広告収入を収奪することが犯罪かと言うとそうとも言えない。生成AIが生み出すコンテンツは著作権違反とは言えないのだ。過度なポルノグラフィーでもない。フェイクニュースとも言えない。
ネットにも規制が必要との声が出てきている。実際欧米では規制する法律も出てきた。だがそれらは詐欺のような犯罪や、個人情報の取得を制限することはできても、MFAは規制できないだろう。メディアのふりをしている、と書くと犯罪者のようだが、メディア企業じゃなくてもメディアとして振る舞うこと自体には何の文句も言えない。私だってMediaBorderという個人メディアを運営している。MFAを規制されたら私もとやかく言われかねない。法的には「悪」とは言えないのだ。
また、スポーツ紙や芸能誌のデジタル版がさかんに送り出すコタツ記事。あれはMFAとどこに違いがあるだろう。コンテンツを人間が書いているか、AIが生み出したかの違いがあるだけで、広告収入を得るために記事を載せるのだから変わらないと言っていい。そのうち、テレビの前に置いたスマホで番組を録音し、あとは自動的に炎上しそうなコメント部分を抜き出して適当な写真を添えて自動的に記事を公開する仕組みでコタツ記事の量産を始めるスポーツ紙も出てくるかもしれない。理論上は十分可能だ。
MFAは無料広告モデルの行き着くところをあらわに示してしまったのかもしれない。コンテンツなんて人間が作らなくてもメディアは成り立つと。生成AIの登場がその流れを決定づけた。オッペンハイマーが原子爆弾を開発したら世界のありようがすっかり変わったように、生成AIがネットの様相を変えようとしているのだ。
無料世界と有料世界の境界
くしくも無料サービスで成長した2大巨頭SNSが有料に足を踏み入れているように、これから先のネット世界は有料か無料かで2つに分かれると私は予想する。
一方は無料の世界。その代わり、AIが作成したのか人間によるものかわからないコンテンツがメディア上に無秩序に出没し、周りを広告が埋め尽くしている。ユーザーは正しい情報を得る意欲もなく、ただ暇つぶしになるとそうした怪しいコンテンツを消費する。実態があるのかないのかはっきりしない広告主が勝手に著名人の写真を使った広告で人々を誘う。中には出し先を吟味せず広告出稿したまっとうな企業の広告も表示されるが、広告主として確認もしていない。
もう一方は有料の世界。きちんと情報が整理され、どこへ行けばどんなコンテンツを利用できるか、みんながわかっている。コンテンツを読んだり楽しんだりする場合は正当な対価を支払う。多くの人は、自分が日常的に読んだり見たりするメディアを決めていて、サブスク契約をしている。もちろんたまに単品のコンテンツも購入する。広告はそうしたメディアの中で、読み応えや見応えのあるコンテンツとして機能している。もちろん広告とわかる表示がついている。広告主もユーザーも安心して広告に接することができる。
この2つの世界は、線引きがあるようで実際には境界は曖昧だ。そしてユーザーも2つを使い分けるだろう。少し怪しいけれども無料世界のコンテンツを目利きして手にしたりもする。そんな中から有料世界で活躍するメディアや作り手も誕生する。
ネット登場前のメディアのあり方では?
ここまで想像したところでふと気づいた。これはネットが登場する前のメディアのあり方と変わらないのではないだろうか? そもそも、コンテンツはお金を払って手に入れるものと我々は認識していた。90年代の私は新聞を購読し、毎週雑誌も片手に収まらないくらい買っていた。テレビ番組は当時も無料だが、ドラマや映画はビデオやDVDを有料でレンタルしていたし、気に入ったものは購入していた。聴きたい音楽はCDを買っていた。コンテンツはお金を払って楽しむものだったのだ。
同時に、無料のコンテンツもあふれていた。ただし無料はアマチュアだったり、レベルが低かったり、時には怪しい人物が裏にいた。ストリートから人気者になったミュージシャンもいたし、同人誌から作家が登場していた。自主映画からプロの映画監督が生まれた。メディアやコンテンツはもともとそういうものだった。
無料が当たり前だと思い込んできたこれまでのネット文化がおかしかったのかもしれない。そうだとしたら、今起こっているのは急激なカーブにさしかかったときの強烈なGで、振り落とされる人が出てきたり誰かが人を蹴落とそうとしている状態なのだ。曲がりきったところには秩序ある世界が待っている。だがそのためには、私たちが秩序づくりをしなければならないということだろう。いまはその、最も大変な数年間に入ったところなのかもしれない。そう思えば少し救われる気がするが、どうだろうか。
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