■のどかな場所で79年前、ある施設の工事が
終戦から79年。太平洋戦争末期、長野県では軍による飛行場の建設が相次ぎました。住民の証言や残された資料からは当時の信州が置かれていた大戦末期の状況が浮かび上がってきます。
長野県佐久市にある「独立行政法人家畜改良センター茨城牧場長野支場」。浅間山を望む広大な敷地でヤギの飼育や飼料の生産が行われ、地元の人々の憩いの場ともなっています。
79年前の夏、のどかなこの場所である施設の建設が進んでいました。
■「えらい仕事をしてたもんだ」 飛行場の建設が始まった
作業にあたった佐久市の小林収さんは93歳になった今も、当時の様子を鮮明に覚えています。
小林さん:
「太陽はギラギラだから汗は出るわ、土地は火山灰だから目も痛くなるわ。口はじゃりじゃりするし大変なんだよ。えらい仕事をしてたもんだ」
小林さんが動員されたのは海軍の飛行場の建設でした。
小林さん:
「これは一体どういう飛行場だって聞いたんだ、兵隊さんに。そしたら『掩蔽(※えんぺい 発見されないように隠すこと)飛行場』だって」
■海から離れた地に海軍の飛行場が
海から遠く離れた佐久で着工された海軍の飛行場。
地元でも知らない人が多いこの飛行場に関する貴重な資料が建設地だった家畜改良センター長野支場に残っています。
1945(昭和20)年4月に前身の国立長野種馬所の所長が国の担当課長に宛てた文書には、軍用機製造工場の担当者が来訪し、「種馬所の敷地に滑走路と地下格納庫を緊急に建設したい」との申し出があったと書かれています。
文面:
「既に上空を飛行し、(飛行場に)最適な場所なりと」
長野種馬所は日清・日露戦争を経て外国の馬に負けない優秀な軍馬を生産することを主な目的に、1906(明治39)年に長野県北佐久郡三井村(現在の佐久市)に設置されました。
海軍の計画は、種馬所を中心に現在の佐久市駒場公園や住宅地にまたがる長さ1.5キロの滑走路と航空機を隠す地下格納庫を作るというものでした。
佐久市臼田文化センター・上原美次さん:
「この辺りから南南西に向かって約1.5キロ。幅が120メートルぐらいありますから、ちょうどグランドの幅ぐらいの広さでずっと向こうまで行ってたって事ですね」
残された文書や住民の体験談をもとに飛行場を調べてきた佐久市臼田文化センターの上原美次さんは、この場所が選ばれたのは、平らな広い土地と川に浸食された断崖があり、滑走路や地下格納庫を作りやすかったからではないかと考えています。
■所長は飛行場の建設を避けたかった?
既に本土も米軍の空襲にさらされ、軍は「軍用機の疎開」と「本土決戦への備え」に迫られていました。
しかし、当時の種馬所の所長は飛行場の建設を避けたかったようです。所長の手紙には「滑走路ができれば、厩舎が空襲の目標となる」などと書かれています。
上原さん:
「近くに滑走路があると馬が興奮してしまうとか、場所はもっと離さないとダメだとか、いろいろな理由をつけて何とか作らせないようにしていたようです」
「牧場を守りたい、あるいは馬をなんとか守りたい、そういう気持ちがあったかと思いますね」
しかし、所長の主張が顧みられることはありませんでした。
■「戦争に負けるなんて考えていなかった」 当時14歳の少年は
滑走路の建設にあたった小林収さんは当時、岩村田国民学校に通う14歳。
現在の御代田町で航空燃料を格納する穴を掘る作業に動員されていましたが、1945(昭和20)年7月のある日ー。
小林さん:
「急に集められてね、『諸君は明日より、長野種馬所に建設中の海軍の飛行場作りに転身する。ご苦労であった! 頭、中(かしら、なか)!』ってね。それで次の日から飛行場へ行ったの」
突如始まった飛行場の建設工事。
小林さんは滑走路に敷く石を運んだり、排水路を掘ったりしました。
小林さん:
「穴はどのくらいの深さまで掘るんですかって聞いたら、『自分の頭の高さまで掘れ!』って。上から砂がかかってくるの、汗かいてるでしょ、泥だらけですよ」
過酷な作業でしたが、疑問には思いませんでした。
小林さん:
「戦争に負けるなんてことは考えてないんだから。14歳の時はそれが当たり前だと思ったから、それこそ一生懸命働いたよ」
「子どもっていうものは、今、戦争をやっている国の子もそうだろうけど大人の言うことを信じてるからね」
■終戦で「幻の飛行場」に
8月、滑走路が900メートルほど出来上がった頃ー。
小林さん:
「天気の良い日だった。お昼食べるちょっと前に集合がかかって。そしてラジオだ。ラジオが置いてある」
「意味わからねえ。14歳だから。それで先生が『本日の作業はこれで終了だ、みんな帰っていい』と。嬉しくなっちゃうよ。暑い中で泥まみれで働いているのに帰っていいっていうんだから、こんな嬉しいことは無い」
ラジオから流れてきたのは日本の降伏を告げる「玉音放送」。
地域の人々に土地の提供や労働を強いた「飛行場」は幻に終わりました。
この日を境に各地で軍に関わる資料が次々と焼却されましたが、種馬所の文書は処分を免れました。
佐久市臼田文化センター・上原美次さん:
「どうして燃やさなかったのかっていうところまではわかりませんけれども、よく燃やさないで残しておいて下さったなと思いますね」
「戦地では無かったけれど、でも佐久にも『戦争』はあったんです」
■戦時中に着工され完成した飛行場も
未完成に終わった佐久と異なり、戦時中に建設され完成をみた飛行場もあります。
長野県伊那市の上の原地区。田園地帯の住宅が並ぶ一角にコンクリートで作られた格納庫の基礎部分が残っています。
1944(昭和19)年に完成した「陸軍伊那飛行場」です。
伊那市創造館で9月1日まで開催中の特別展「ー伊那に眠る巨大な戦争遺跡ー 陸軍伊那飛行場とその時代」では、ここでも多くの子どもたちが建設作業に動員されたことなどを伝えています(特別展は9月1日まで 火曜休館 入場無料)
■「特攻隊員」が訓練
完成後、伊那飛行場では練習機による訓練が行われていましたが、やがて「特別操縦見習士官」が集められます。いわゆる特攻隊員でした。
特攻仕様の機体で訓練を重ね、終戦を迎えなければ8月17日に朝鮮半島に出撃する予定でした。
2000(平成12)年以降に行われた発掘調査で、飛行場の跡地から隊員たちが使ったとみられる盃などが見つかっています。
学芸員の浜慎一さん:
「もしかしたら特攻兵たちが最後にその盃を使ってお酒を飲んでいたかもしれない。私たちの暮らしている地面の下にこんなに大きな戦争遺跡が埋まっているんだということをそういった物から感じて欲しいです」
■相次いだ飛行場建設 本土決戦の準備に加え、背景には陸軍と海軍の対立も?
長野県内には戦前から長野と上田の2ヵ所に飛行場があり、戦時中に長野市長沼、佐久、松本、伊那で相次いで建設が始まりました。
1944(昭和19)年に出来た伊那飛行場に続いて松本飛行場も終戦の年に完成にこぎつけましたが、長野市長沼と佐久では未完成に終わっています。
明治大学の山田朗教授(日本近代史)は、長野県内で飛行場が相次いで着工された理由として、長野市松代に大本営など政府の中枢機関を移す計画と連動していた可能性があるとみています。
明治大学・山田朗教授:
「内陸に控えの航空戦力を確保しておき、本土決戦が最終段階になってもなるべく総司令部である松代に近い所の航空基地で最後の最後まで抵抗できるようにするという意味があったと思います」
内陸にある長野県の飛行場はほとんどが陸軍の管轄で、未完成に終わった佐久だけが海軍によるものでした。山田教授は背景に軍内部の事情もあったのではないかと考えています。
明治大学・山田朗教授:
「戦力の温存イコール海軍の政治的な発言力の源にもなるわけです。本土決戦においては陸軍が海軍を吸収してしまおうという考えが具体化して海軍は警戒していました。航空基地を作って最後の最後まで航空作戦をやることで、陸軍に対する発言力を維持していくという政治的な駆け引きの意味もあったと思います」
■14歳で滑走路の建設に従事 93歳が今、思うことは
終戦の翌年、小林さんは教師を目指して長野師範学校へ入学。
戦時下から一転、自由に勉強ができる喜びは何ものにも代えがたいものでした。
小林収さん:
「あぁ、民主主義っていうのはいいもんだなと思った。本も本当のことが書いてある。私たちが戦時中に学んだ歴史は本当のことが何にも書いてない。学校の帰りに図書館に寄っては本を見てた。ああ、これが自由っていうもんだなぁって」
その後、教壇に立った小林さんは地理などを教え、退職後は地元の佐久地域の歴史を研究してきました。
今も長野県内各地に残る戦時中の飛行場の記憶。
小林さんはそうした記憶を見つめることが大事だと話します。
小林さん:
「自然を良く理解して、日本の歴史を理解してその上でこの佐久という地域、日本という地域をどうしたら良い国にしていくんだ、っていうのが私の専門の地理学であると思います」
「やっと何十年も経ってわかった、そういうことを一人ひとりが考えていくことが日本の国を良くすることだと思うんです」
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