OHKのカメラが収めた岡山・香川の懐かしの映像で、ふるさとの歴史を振り返ります。今回は1984年(昭和59年)7月25日に放送された映像です。

岡山港周辺のいわゆる「岡南地域」に立地の企業の工場向けに、石炭など原材料の産業貨物輸送や、岡山市内中心部への地域住民の足として役割を担ってきた「岡山臨港鉄道」。1973年(昭和48年)の第1次オイルショックを契機とした鉄道事業の収益悪化を受け、鉄道事業の「存続」か「廃止」かについて検討された結果、この日の取締役会で「廃止」が承認されました。

岡山臨港鉄道は1951年(昭和26年)、戦前に敷設されていた「岡南鉄道」の線路を当時の所有企業から買い取る形で鉄道運輸事業を開始。会社の記録によると同年8月1日午前6時35分に岡山港駅を出発した一番列車は当時、「汽車会社前」「臨港藤田」「臨港福田」「臨港泉田」の各駅、そして終点の「大元」まで、集まった沿線地域の人々の歓声と期待の中、駆け抜けていったそうです。

その後、岡南地域の企業立地の整備を目的に岡山県が発足した「岡山県企業育成誘致委員会」を起源に、県、岡山市、岡山商工会議所が軸となり積極的な企業誘致が行われ、沿線に倉敷レイヨンや同和鉱業などの企業が進出。各社の工場や製錬所まで石炭や硫酸などを「鉄道」を使って輸送する事業が本格化しました。

高度経済成長期にはその2社を中心に貨物輸送部門が躍進したといいます。同時に、モータリゼーションの台頭やバス路線の登場で旅客が減少するなど苦戦を強いられていた旅客輸送事業も、岡南地域の人口増加もあって緩やかな増収を達成。事業の多角化も始まり経営は安定するかに思われましたが、大きな転機が訪れます。

73年(昭和48年)10月の「第1次オイルショック」による原油価格の高騰で各社の生産規模は縮小。高度経済成長の終焉を迎え、鉄道会社の柱だった鉄道貨物部門が大きく減収に陥ると、急速な経営危機を迎えることになりました。

74年(昭和49年)に開校した岡山芳泉高等学校の定期利用者の増加や大幅な値上げの実施で75年度には旅客輸送部門の売り上げも1000万円の大台を突破しましたが、水島工業地帯の発展に水をあけられる形で企業立地が進まず、貨物輸送は衰退。「存続」か「廃止」かの議論が始まり、最終的に廃止が決まったものです。廃止される頃には1日13便、利用者は約500人にまで減っていました。鉄道はこの年の12月に姿を消しました。

33年にわたって貨物輸送、そして地域の足として使命を果たしてきた岡山臨港鉄道。この鉄道の廃止は時代の流れを印象づける出来事でした。

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