物価上昇や春闘を受け、賃金の動向に注目が高まるが、賃金統計にはどうにも賃上げの程度が判断しづらい問題が山積している。

賃金は産業ごとに違う(金属労協の春闘賃上げボード、記者撮影)

賃金は上がっているのか。物価上昇を上回るほど上がっているのか。賃金統計は日本経済でいま最も注目される数字の1つだ。

岸田文雄首相は「物価上昇を上回る所得を必ず実現する」と表明。日本銀行の植田和男総裁は、マイナス金利解除以降の利上げは「データ次第」として物価と賃金の動向を注視する。

春闘の賃上げ率は5.24%(4月2日時点の第3回集計)と33年ぶりの高水準を保っている。ただし、連合の集計は最終段階でも約300万人が対象で、1000人以上の大規模組合が7割を占める。

日本で賃金を受け取っている雇用者は約6000万人(労働力調査)で中小企業が大半。はたして賃上げはどこまで波及するのか。

ところが、実態をつかもうにも肝心の賃金統計がはなはだこころもとない現実がある。

「実質賃金マイナス最長」の影で消えた上昇分

賃金に関する公的統計は複数あるが、毎月の動向を追うのは厚生労働省の「毎月勤労統計」(毎勤)のみ。大正時代に始まった歴史ある統計だが、近年は問題含みのお騒がせ統計として、賃金動向をウォッチする政策担当者やエコノミストたちを悩ませてきた。

4月8日に公表された2月の速報値。報道では、名目賃金に物価を反映させた実質賃金が前年同月比1.3%減で「過去最長の23カ月連続のマイナス」という部分がクローズアップされた。その影で、賃金の前年同月比の算出方法にある変更がなされていた。

名目賃金(現金給与総額)の値からそのまま前年同月比を算出すると1月に3.8%、2月速報では4.1%の伸びとなるところ、公表値は1月1.5%、2月1.8%の伸びと示された。2.3%も差がある。

なぜ2.3%分は「消された」のか。

2.3%の乖離した上昇分は2024年に起きたわけではない。後述する「ウェート更新」という統計手法の都合で「過去に徐々に起きていたはずの上昇」が一挙に出たものだ。実態に近い賃金上昇率を調査結果とするため、乖離した上昇分を取り除くのだと厚生労働省は説明する。

それにしてもなぜ、こんな乖離が生まれてしまったのか。上昇が突然生じた背景には、毎勤が抱える問題がある。

毎勤統計で算出する賃金とは「日本全体の雇用者1人あたり平均」だ。月額で基本給にあたる所定内給与、残業代、賞与などさまざまな区分で調べており、名目賃金とは、すべて含んだ現金給与総額を指す。

約3万3000事業所に毎月、支払った賃金総額と労働者の人数を調査。産業や規模で異なる1人あたり賃金を、労働者数の割合でウェートをかけて足し合わせ、日本全体の平均値として算出している。

そのため、調査回答された賃金の増減に加え、ウェートの変化が全体の賃金の増減を左右する。ウェートの変化とは産業構造の変化を表す。たとえば賃金の多い産業で労働者が増えれば、日本全体の賃金が上がるというわけだ。

通常、労働者数は前の月からの増減を複雑な方法で算出していくが、数年に一度、全事業所に調査する経済センサスを基準に引き直し、ウェートを更新。その時点から再び、毎月の労働者増減を重ねていく。

小規模飲食業が113万人ズレていた

ところが2024年1月、基準から引き直して更新した労働者数は、それまで毎月推計されていた労働者数から大きなズレが生じてしまった。ウェート更新により賃金が低い労働者群の割合が下がり、平均賃金は上がった。

そのまま前年同月比を算出すると、賃金上昇率が跳ね上がってしまう。そこで更新後のウェートにそろえて計算した賃金の前年同月比を採用したことで生じたのが「消えた2.3%」だった。

労働者数がズレた最大のポイントは「小規模飲食業の労働者数」だ。2024年1月時点において5~29人規模の飲食業で113万人分、推計値が基準に基づく値より過大となっていた。

1人あたり月額名目賃金は全産業で約28万円に対し、5〜29人規模の飲食業は約10万円。パートタイム労働者の比率が8割超と高い。この区分の労働者数が基準より過大に推計されていたため、修正を施せば全体の賃金上昇率が跳ね上がってしまうことになったのだ。

これまで名目賃金の上昇率を押し下げてきたのが、パート比率の増加だ。パートは賃金水準が低いため、労働者数でウェートが増すと全体の賃金上昇率を押し下げる。

ニッセイ基礎研究所の斎藤太郎経済調査部長は「春闘の結果との連動性が高い一般労働者の所定内給与は、2023年度に入って前年比1%台後半と、2023年春闘のベースアップ(2%程度)と同程度。だが、パート比率の上昇によって平均賃金は0.5%程度押し下げられている」と指摘する。

今回のウェート更新で、2024年1月時点のパート比率は32.80%から30.88%へと下がった。パート比率の上昇は実際どうなっているのかという疑問が生じ、全体の賃金上昇率を鵜呑みにできなくなってくる。

このような賃金上昇率の混乱を招いた労働者推計の修正。次に疑問になるのは、なぜ、飲食業の労働者数は過大に推計されていたのかだ。

新陳代謝を反映させる手法が裏目に

労働者数を測る1つとして、調査対象の事業所に労働者数の増減を聞いているが、調査の枠外でも、新たに事業所が生まれ、また廃業することで労働者数の増減が生じている。この事業所の改廃による増減を取り込む手段が雇用保険データの活用だ。調査対象事業者の増減と雇用保険データで取り込む改廃の影響を半々で反映させている。

だが、この新陳代謝を取り込む従来の手法が裏目に出た。

雇用保険は近年、適用拡大によって保険加入者が増えた。それも毎勤では単なる適用拡大を「労働者増」としてカウントされてしまう。飲食業はもともと雇用保険加入率が低いうえ、コロナの影響で休廃業が多かった業種でもあり、2021年5月時点の基準値から引き直すと大きなズレが生じたようだ。

賃金算出のうえでウェートを左右する労働者数の推計方法はかねて問題視されてきた。厚生労働省は識者によるワーキンググループ(WG)を2021年から開いて、労働者の増減を反映させる方法や、調査事業所の労働者数が当初の規模区分を超えた際の扱いについて検討を重ねてきた。

WGは2023年9月にさまざまな課題について引き続き検討を要するとしつつも、雇用保険データと調査対象事業所での増減を半々で取り入れる現行の労働者数の推計方法については「一定の合理性がある」として幕を閉じる。あとは事務局が積み残しのデータ分析を行って報告書に反映させるだけのはずだった。

ところが、最終会合で委員の1人が、雇用保険の影響を産業別に見るよう「宿題」を出したことが思わぬ発見をもたらした。飲食業で労働者数が過大に推計されていることから2024年のウェート更新では賃金が急に上昇するとわかり、以前のように前年同月比をそのまま算出するわけにはいかなくなったのだ。

2024年1月、同省はWG会合を追加開催。ウェート更新で生じる段差を賃金上昇率から取り除くことへの同意を委員に求めた。

2028年度には雇用保険が週10時間以上の労働者に適用拡大される見通しだ。「真剣に早くから取り組んでいかないといけない」(追加WG会合で厚労省政策統括官)と一転して推計方法の見直しに切迫感を強めている。

「遡及改定」が問題視された過去

振り返れば、毎勤をめぐっては次々と問題が勃発してきた。

2015年には、サンプル(調査対象事業所)入れ替えによる影響をもとに過去に遡及して値を改定すると、賃金上昇率が下振れし、月によってはプラスからマイナスに転落。当時「アベノミクスの成果」を示す数字だっただけに遡及改定が問題視された。

2018年にサンプル入れ替えの影響を抑えるべく部分的に入れ替える手法に変更し、「過去の値は変えない」ことにしたが、今度は賃金上昇率が上振れて騒動となる。上振れの原因を調べる中で発覚したのが、500人以上事業所で行っているはずの全数調査が東京都で長年行われていなかった「統計不正」だった。

「この数年でだいぶマシにはなったが、非常に重要な統計があまりに信用できない」とある外資系証券エコノミストはため息まじりに話す。一時の数字の動きで決め打ちせず幅を持って見ること、他の統計の動きと照合することで賃金動向をつかもうとしている。

エコノミストたちが着目するのが、毎勤で参考系列として公表されている共通事業所ベースの賃金上昇率だ。前年に続いて調査するサンプルに絞り、ウェートは当年で固定する。つまりサンプル入れ替えの影響も、労働者数の増減によるウェート変化の影響も含まれない。各事業所単位で賃金が上がるかどうかにフォーカスした値といえる。

下図のように、共通事業所ベースの賃金上昇率は、メインで報道される本系列以上に上がってきたことがわかる。

ただし、共通事業所ベースも難点がある。対象となるサンプル数が限られ、継続して回答できる事業所、すなわち賃金が高めの事業所に集計対象が偏っていることから賃金上昇率が高めに出る可能性があるからだ。

共通事業所も絶対視できない

「共通事業所を常に信じられるわけではない。他のデータと比較して確認しながら使っていく必要がある」。統計を専門とする肥後雅博東京大学教授はこう指摘する。

賃金構造基本統計調査や厚生年金保険の標準報酬月額など他の賃金統計をそのクセもふまえて検討し、現在は本系列よりも共通事業所系列のほうが賃金の基調変動をより反映しているとみる。

ただし、確認に使う他の統計は精度では優れているが公表タイミングが遅いため、足元で毎月の賃金動向を捉えるために共通事業所を使う際には、判断は留保付きにならざるをえない。共通事業所、本系列ともに一般労働者とパートタイムに分けて見ることも有益だが、賃金動向の分析が困難であることに変わりはないという。

「賃金の実態がわからず経済政策ができるのだろうか。精度を上げるため統計の作成方法を見直すべきだ」(肥後教授)。

実質賃金がプラスかマイナスか。焦点はそこだけではない。賃金は上がりさえすればいいのかといえば、賃金上昇が物価上昇を招き、欧米のように共に加速する恐れもある。賃金が上がり始めたからこそ、より実態に迫る必要性が増す中で、毎勤統計の改善は避けては通れない難題だ。

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